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東京高等裁判所 昭和46年(ネ)1584号 判決 1975年12月22日

控訴人(原告) 深町文子 外三名

被控訴人(被告) 学校法人慶応義塾

主文

本件控訴を棄却する。

当審における控訴人らの新たな請求を棄却する。

控訴費用(当審における新請求に関するものを含む。)は、控訴人らの負担とする。

事実

第一申立

控訴人ら訴訟代理人は、第一次請求として、「(一)原判決を取り消す。(二)控訴人らが被控訴人経営の慶応義塾大学医学部附属病院の看護婦としての労働契約上の権利を有することを確認する。(三)被控訴人は、控訴人らに対し、それぞれ、別紙債権目録(一)及び(二)の各債権額欄記載の金員並びに昭和五〇年五月一日以降復職に至るまで毎月一九日限り、控訴人吉沢扶佐子、同山口つぎに対し各金一五万八、一八〇円、控訴人深町文子、同国井智恵子に対し各金一一万四、七〇〇円、及び別紙債権目録記載の各支払期日の翌日以降支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。(四)訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」旨の判決並びに(三)掲記の金員の支払を命ずる部分につき仮執行の宣言を求め、予備的請求として、「(一)原判決を取り消す。(二)被控訴人は、控訴人らを被控訴人経営の慶応義塾大学医学部附属病院に看護婦として採用しなければならない。(三)訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」旨の判決を求めた。

被控訴人訴訟代理人は、控訴人らの控訴をいずれも棄却する旨の判決を求めた。

第二主張及び証拠

当事者双方の事実上の主張及び証拠の関係<省略>(ただし次のとおり訂正を加える。)

原判決事実摘示の訂正

1  原判決三枚目表二行目中「慶応義塾大学医学部の附属として」とあるのを「被告経営の慶応義塾大学医学部の附属施設として」と改める。

2  同三枚目表三行目中「慶応義塾」の次に「(被告)」を加える。

3  同三枚目裏二行目から三行目にかけて「昭和四二年一二月一〇日」とあるのを「昭和四二年一二月一〇日ころ」と改める。

4  同五枚目表八行目中「原告らの意思表示」とあるのを「前記(1)の契約に基づく原告らの意思表示」と改め、同九行目中「前記契約」とあるのを「前記(1)の契約」と改める。

5  同七枚目表七行目中「合計賃金債権」とあるのを「賃金債権」と改める。

6  同八枚目表八行目から九行目にかけて「昭和四二年一二月二〇日」とあるのを「昭和四二年一二月一〇日ころ」と改める。

7  同一二枚目裏七行目中「昭和四二年一二月一〇日」とあるのを「昭和四二年一二月一〇日ころ」と改める。

控訴人らの補足した主張

一  控訴人らは、昭和四〇年四月被控訴人経営の慶応大学医学部附属厚生女子学院(以下本件学院という。)の学院募集に応募して、入学の申込をし、本件学院の行う入学試験を受験して、これに合格し、入学の許可を得たのであるが、既に、この入学の際に控訴人らと被控訴人との間において、控訴人らが本件学院において、被控訴人経営の慶応大学医学部附属病院(以下単に慶応病院という。)看護婦としての養成を受ける旨の養成契約と、控訴人らが卒業前身元保証書等を提出する時期までに、控訴人ら若しくは被控訴人が合理的理由をもつて控訴人らが慶応病院に看護婦として就労することを拒否する意思表示をしない限り、養成期間終了後の四月一日から控訴人らが慶応病院看護婦として就労する地位を取得する旨の始期付き、解約権留保付き労働契約とが合体した契約が成立したものであるか、若しくは養成工契約類似の無名契約が締結されたのであつて、単に被控訴人において控訴人らに対し一般的な看護婦資格を取得させるための教育をし、控訴人らにおいてその教育を受けるという契約が成立したのではない。

このような特殊の契約が本件学院に入学するに際して成立したと解すべきことは、以下に述べる諸点から論証することができる。すなわち、

(一) 一般にわが国における看護婦の養成は、戦前においては、従軍看護婦の養成を目的として日本赤十字社により行なわれていたものが主体であつて、その他民間の看護婦養成は、病院経営者が自己の病院に必要な看護婦を自己の経済的負担で養成するという制度的仕組み、すなわち企業内養成という方式のもとに行なわれて来たものであつて、この仕組みは明治以来政府が民間看護婦の養成に手を貸そうとしなかつたことから、医師(開業医)がいわば自前で、自己を補助する看護婦の養成に取り組まざるを得なかつたことに基づいて自然発生的に生じたものである。大正四年看護婦規則が制定され、私立看護婦学校養成所指定基準が発令され、看護婦の修業年限、教育課程等が公に規制されるに至つたが、これは自然発生的に養成されて来た看護婦の資質の向上のために一定の規制をしようとしたものに過ぎず、昭和一六年労務調整令が制定されたが、この勅令の目的とするところは、看護婦の年令引下げ、戦争中の従軍看護婦としての早期組入れをはかるにあつたので、民間における看護婦養成の右述のような実態には変更がなかつた。終戦後の昭和二三年、看護婦等の資質の向上を目的として、保健婦・助産婦・看護婦法(以下保助看法という。)が制定されたが、同法の下でも看護婦養成は、依然として各病院経営者等の手に委ねられており、その養成の実態は戦前と変りがない。

このことは、現在のわが国における看護婦養成施設が合計数で四二四校に及ぶが、そのほとんどすべてが病院及び大学医学部の附属施設であつて、かような附属施設は、すべて学校教育法による大学教育の系列を離れた各種学校であり、そこでは、企業内の技能者養成の域を出ない教育が行なわれていることからみても明らかである。そうして、これらの施設においては病院実習が重視されている(実習の授業に対する割合は三分の二にも達している。)のが一般であるところ、この実習なるものは、病院側が看護婦の労働力を補うための補助労働力としてこれを活用することが主たる目的であり、実際上も、学生は、病院の労働関係に組み入れられて、病院看護婦の補助労働に従事しているのが実態である。このように、看護婦養成施設に在籍中の者が病院看護婦の補助労働に従事する反面として、病院経営者は、これらの者に対しその対価として宿舎(寮)を提供し、寮費、食費を無償とし、更に、養成期間の終了後、自己の経営する病院の看護婦として確保するため、奨学金制度を設けて金銭的に束縛するのが一般である。

(二) 本件学院の沿革及び本件学院と慶応病院との人的及び経済的結び付きについて

1 本件学院の前身は、慶応義塾大学部医学科附属看護婦養成所(以下、単に附属養成所若しくは養成所という。)として設立されたものであり、大正六年一二月認可を得、大正七年四月から発足した。そうして、附属養成所の目的は、「慶応義塾大学部医学科附属病院における看護婦を養成するため、看護の方法を教授する」(慶応義塾大学部医学科附属看護婦養成所規則第一条)ことにある。右養成所規則は、昭和一五年一一月制定の労務者募集規則、昭和一六年一二月六日発布された労務調整令に対応して、昭和一七年六月認可を受けて改正された。この改正された規則によれば、本件学院生は、形式上、学生の身分を与えられ、かつ、卒業後慶応病院で一定年限看護婦として就労しなければならない旨の義務年限の規定が廃止され、従前無償とされていた授業料が徴収されることとなつた。しかし、この規則改正は自ら養成した看護婦を従軍看護婦として戦地に送り出されることを回避して、慶応病院の看護婦としての労働力を確保温存しようとすることが実質上の理由、目的であつて、養成所の規則が変わつたからといつて、その実態までが変わつたわけではない。このことは、養成所規則の改正にかかわらず、義務年限制、授業料の不徴収が事実上昭和三五年まで存続したこと、昭和二六年まで(附属養成所が本件学院の名称に変更されたのは、昭和二五年三月である。)慶応病院は所要の看護婦を附属養成所若しくは本件学院の卒業生から充足し、それ以外の看護学校等の卒業生(以下「他卒者」という。)等を採用しなかつたことによつても明白である。

ついで、昭和二五年保助看法が施行され、これにともない附属養成所が本件学院に名称が変更され、本件学院の規則が形式上新たに制定されたが、これらのことも単なる形式上のものであるに過ぎず、附属養成所当時の前記目的には実質上なんらの変更がなく、養成の実態もなんら変わらなかつたことは、さきに一般論として述べたとおりである。

もつとも、形式上廃止されたが、事実上存続した義務年限制度は昭和三五年以降事実上も廃止されたけれども、これにとつて代つて奨学金制度が足止め策として利用された。すなわち、学院生のほとんどの者がこれを受給せざるを得ない経済状態にあつたので、被控訴人は、義務年限の廃止の代替措置としてこの制度を設け、これを受給した本件学院生が卒業と同時に奨学金の返還をなし得ない経済状態にあるのに乗じて、本件学院生を金銭的に拘束し、慶応病院看護婦の労働力を確保してきた。このように、附属養成所の名称の変更、附属養成所の規則の変更、本件学院規則の新規制定があつても、附属養成所の設立以来のその目的は、実質上なんらの変更がなく、現在まで存続している。

2 本件学院は、被控訴人の経営するものであるが、被控訴人の組織の一部を構成するものであつて、独立の法人格はなく、経済的には被控訴人の経営する慶応義塾大学医学部(以下単に被控訴人大学医学部という。)に従属し、人的にも同医学部若しくは慶応病院と密接に結合している。すなわち、本件学院の経営上の収支の関係は、学院生から寮費、食費を徴収しないこと等のため、学院生一人につき慶応病院看護婦の一人あたりの人件費の約三分の一にあたる金額を本件学院が負担する結果となつている。このため、本件学院は、例年大幅の欠損額を出し、この欠損額に相当する金額は、被控訴人大学医学部が負担することとして処理されており、結局毎年度本件学院経営の費用の九〇パーセント以上の金額が同医学部によつて負担、支出されて来た。のみならず、本件学院の専任教員、教務主任、教務事務職員、学院生寮の舎監の給料は、すべて被控訴人大学医学部の予算として計上、支出されている。

つぎに、本件学院運営の人的構成についてみれば、本件学院長は歴代被控訴人大学医学部の教授若しくは医学部長が兼任し、本件学院の教務主任は慶応病院看護婦主任若しくは婦長が兼任し、専任教員も本件学院出身者で占められている。そうして、慶応病院の幹部看護婦である婦長は、すべて本件学院出身者であり、看護婦主任のほとんどの者も本件学院出身者であり、また本件学院の教務主任は、毎朝開かれる慶応病院の婦長会議の構成員として、その会議に参加し、慶応病院側の要請を本件学院の教務等に反映させる役割を果している。右の事実から見ても、本件学院は被控訴人の企業体の一部を構成するものであつて、本件学院は、慶応病院看護婦を養成するための企業内養成所であることが明らかである。

(三) 慶応病院は本件学院を同病院看護婦の主な供給源としていたことについて

本件学院学則(乙第二号証の三)第一四条には「学院生は学院長の許可を得なければ他の学校に入学を志願し、又は各種の試験に応ずることはできない。」旨が明記されており、学院生は在学中から自己の将来の進路について規則上の制約を受けている。

そうして、実際上本件学院の卒業生のほとんどの者が慶応病院看護婦として採用されることを希望し、希望者は被控訴人において全員これを採用し、被控訴人からその就労を拒否された事例は、控訴人らの卒業年次の昭和四三年度の場合控訴人ら及びほか一名について就労拒否がなされるに至るまで、本件学院が前記のように附属養成所として発足以来、過去に一度もなかつた。

そうして、本件学院卒業後、慶応病院看護婦として就労した者は、本件学院卒業生の中八〇ないし九〇パーセントの高率に昇り、この比率は、看護学校卒業生の、その学校設置主体への就職の全国平均比率約七〇パーセントに比べて遙かに高い。のみならず、本件学院卒業生中慶応病院看護婦として就労しなかつた者の大部分は、保健婦、助産婦等になるための進学コースを選択した者であつて、他病院、他診療所に就職した者の数は僅少である。もつとも、昭和四三年度に本件学院を卒業した者(附属養成所の第一回卒業生を一回生と呼び、以後毎年度の卒業生を右一回生を基準として毎年次の卒業回数を加えて何回生と呼ぶのが慣行であつて、この慣行は、本件学院に名称が変更された後も変らず、昭和四三年度卒業生はこの慣行に従つて五六回生と呼ばれている。)については、慶応病院看護婦として就労した者の数は、従前の卒業生の場合に比べて少いが、これは、被控訴人が控訴人らほか一名の卒業生について慶応病院で就労することを拒否したことに抗議して、同年度の卒業生の多くが慶応病院に就職することを拒んだという事情によるものであつて、これを基準として前記の比率が判断されるべきものではない。

それのみならず、被控訴人は本件学院の五六回生(昭和四〇年度入学者)の場合以降本件学院の入学定員を、従前の定員四〇名から一挙に八〇名に増員したのであるが、この増員は慶応病院の病棟数が増加し、それでなくとも同病院看護婦が不足であつたため、これらの対応策として慶応病院看護婦の増員を図るために本件学院の入学定員を増加させたのである。このことをみても、本件学院が慶応病院看護婦を養成するためのものであることが明らかである。

かように本件学院は、慶応病院看護婦の確保のためにあり、慶応病院は同病院に就労する看護婦の供給を主として本件学院に求めていた。

(四) 本件学院生の入学の動機と入学許可の判定基準、及び入学後における慶応病院関係者らの言動

1 本件学院生は、ほとんど例外なく学院卒業後は慶応病院の看護婦になることを目的として入学を申込み、入学したのである。控訴人らも本件学院に入学し、養成を受ければ、特段の理由のない限り慶応病院看護婦として就労できることを知り、これを前提として入学願書を提出し、入学試験を受けた。本件学院生のほとんど全部に通ずる、かような意図は、単に学院生側の一方的な期待にとどまるものではなく、前記のように、本件学院卒業生が慶応病院での就労を希望したときには例外なく病院側においてこれを受け入れていた事実に裏づけられているのであつて、学院生の右の入学目的ないし意図は、学院生側においても、当然に実現されるものと認識していた。

2 本件学院の入学試験は一般の学校と異なり、筆記試験のほかに、面接、身体検査が行われるところ、その合否の判定基準は慶応病院看護婦として就労するについての適格があるかどうかに置かれ、容姿、容貌、身体の機能についてまで判定の基準に加えられている。しかも、面接試験には、慶応病院総婦長が試験官として面接、採点をするのであるが、総婦長は、病院看護婦採用の実質的権限を有するのである。かように、本件学院の入学試験においては、慶応病院看護婦としての適格があるかどうかを判断して合否を決定していたのである。

3 慶応病院関係者らは本件学院生に対して入学時から、機会あるごとに、くり返し慶応病院で働くよう勧誘していた。すなわち、慶応病院総婦長、本件学院長らは、入学式、戴帽式(キヤツピングとも称せられるが、入学後、予科の教程を終り、看護実習につく直前の段階で、看護学生としての所定の帽子をかぶる儀式)等において学院生に対し慶応病院に残つてもらいたい旨を表明しており、殊に控訴人らを含む五六回生の場合においては、総婦長、院長らは、定員増加の理由として、慶応病院における看護婦不足の対策である旨を表明して、全員が慶応病院に残つてもらいたい旨をくり返し訴えたのであつた。病院関係者のかような病院勤務勧誘行為は後述するように慶応病院に就労されたい旨の労働契約の締結の申込であり、本件学院生側において卒業後慶応病院に勤務できることが当然期待できるものと受けとめていた。

(五) 本件学院生の養成の実態について

本件学院においては、看護婦としての一般的な理論、技術の修得はもとより、養成期間修了後即刻慶応病院看護婦として労務を提供できることを主目的として行われ、その主要な内容は実習であるところ、この実習により、養成期間三年間を通じて、慶応病院看護婦として一人前の看護業務を行い得るよう養成するのである。

そこで、実習について述べれば、第一学年の前半に「予科見学実習」の段階があり、この段階で病院、患者、看護婦の概念を把握させたうえ、慶応病院看護婦としての適格の有無を判断するため試験(予科試験)が行われ、この試験に合格した者が戴帽式に参加し、これを経て次の段階の基礎看護実習の段階に進むことができる。そうして、基礎看護実習において、患者の身のまわりの世話、洗髪、清拭、シーツ交換、モーニングケア等病棟における看護業務の基本的な部分の修得が行われる。

ついで、第二学年に進んだ段階から病棟各科の実習に従事する(各科実習と呼ばれている。)が、ここでは学院生は慶応病院の看護業務に組み込まれた、実際的看護を行わなければならない。すなわち、慶応病院看護婦の日勤と同じ勤務体制のもとに置かれ、看護婦とほぼ同様の看護業務を行うのである。

第三学年に進んだ段階では、学院生は慶応病院看護婦と同じ程度に看護業務を行うことができるよう、正確に早く仕事をすることが強く要請される。その実習密度も高くなり、一日中病棟で働きまわり、一人前の看護婦としての労働力の提供が期待され、活用される。そうして、各科のすべての実習が終了したうえで、それぞれの科に配属されて病棟主任に付いて病棟管理の実際(主任業務と呼ばれる。)を学習する。この病棟管理実習において、三年生は一年生の基礎看護の指導を行うのであるが、これらの病棟管理実習及び一年生の基礎看護指導実習は、本件学院の特殊の教課であつて、学院卒業後慶応病院で直ちに看護婦としての就労ができるための特殊の養成方法である。

かような実態に照らして、本件学院における三年間の養成期間は、慶応病院看護婦へと完成される過程であり、通常の学校の教育課程とは本質的に異なる。そうして一般の養成工のように養成労働の対価として学院生は賃金の支給は受けないが、寮費、食費が無償であることは、病棟実習、すなわち労働の提供と対価関係にあり、学院生は養成工に類似する地位を取得していたのである。

(六) しかも、被控訴人は、この養成の課程において、本件学院生中慶応病院看護婦として不適格者と認められる者を排除することができる。すなわち、前記のような予科実習の終了した段階で、予科試験が施行され、ここで、入学後再び慶応病院看護婦としての適格を判断し、不適格者を排除し、更に、日常的にも学則第一九条(乙第二号証の二)、第二六条(乙第二号証の一)により、不適格者は、「成業の見込のない者」として退学させることができるのであつて、このことは本件学院の在学期間を通じて行われる看護婦養成が慶応病院看護婦として完成させるための養成過程であることを裏づけるものにほかならない。

(七) 本件学院卒業生の慶応病院就労手続について

本件学院の三年間の養成期間が終了した段階で、慶応病院看護婦として就労する希望のある学院生は、改めて特段の形式を伴う労働契約を慶応病院ないし被控訴人と締結する必要がなく、実際上もそのような手続はない。

すなわち、第三学年に在学中の学院生に対して、被控訴人は慶応病院に残つて働く希望の有無と配属病棟の希望等を二度にわたり調査し、これによつて慶応病院に残る者、すなわち慶応病院で就労する決定的意思のある者を確認し、特定しこれらの者に対し養成期間の終了直前に身元保証書等の提出を求めるだけであり、この手続の以後は、毎年三月下旬に看護婦寮への入寮者の部屋割りと病棟の配属場所が看護婦寮の下駄箱に貼り出され、四月一日から自動的に慶応病院看護婦として就労することが認められてきた。そうして、このことは、被控訴人が附属養成所を開設して以来の慣行として行われて来たのである。

本件学院卒業生の慶応病院に就労する際の右のような一連の手続は、他卒者が慶応病院に就職する場合の採用手続にはまつたく見られない。

右掲記の(一)ないし(七)の諸事実の存在及びこれらが附属養成所開設以来の慣行であることは、本件学院が学院生に対し一般的な看護婦資格を得るための教育を施す教育機関でないことを明白に物語るものである。

そうして、控訴人らは、前記(六)に述べたところにより被控訴人から慶応病院看護婦として不適格であるとの判定を受けることなく、三年間の養成期間をまつとうし、かつそれぞれ優秀な成績を収め身元保証書の提出時期までに被控訴人から解約の意思表示がなされなかつたから、入学時における前記契約に基づき被控訴人との間に昭和四三年四月一日をもつて労働契約が成立したものといわなければならない。

二  控訴人らと被控訴人間において、遅くとも控訴人らについての身元保証書の授受があつた昭和四二年一二月一〇日ころに、就労の時期を養成期間終了後の昭和四三年四月一日とする労働契約が成立していたものと認められるべきことは、右述のとおりであるが、かように認められるべきことの根拠となる間接事実を、被控訴人らの主張に反論を加えつつ、整理すれば、つぎのとおりである。

(一) 本件学院が慶応病院看護婦を養成することを目的として設立された施設であり、本件学院において控訴人らは卒業後即刻慶応病院看護婦として就労できるよう三年間にわたり養成され、その養成の各段階において慶応病院看護婦として適格があるとの判定を受けて来たものであることは、前段において詳述した。

(二) 被控訴人は、控訴人らを含め本件学院の五六回生全員に対して、総婦長、学院長を通じて、入学時以来一貫して慶応病院看護婦の不足を訴え、卒業と同時に慶応病院で働いてもらいたい旨を表明して来たことは前記のとおりであり、被控訴人側のこのような意思表明は単なる挨拶にとどまるものでなく、慶応病院に就労されたい旨の右学院生全員に対する労働契約締結の申込である。

(三) 被控訴人の右のような労働契約の締結の申込の意思表示は、昭和四二年一二月初旬控訴人らを含む五六回生中慶応病院就労希望者に対し、必要書類として履歴書(写真添付)、身上書、身元調書のほか、「この度、貴塾に就職しましたについては‥‥‥」という文言の記載のある身元保証書(控訴人らに関するものとして乙第一六号証の一ないし四)の提出を昭和四二年一二月一〇日までという期限付きで求めた行為により確定的になされたものというべきである。

1 被控訴人は控訴人らが本件学院の第三学年に進級した年である昭和四二年五月慶応病院に残るかどうかの希望調査を行い、ついで同年一〇月下旬さきになされた希望調査の際に慶応病院に残つて働く旨の意思表示をした学院生に対し、慶応病院の何科何病棟という形で配属希望を提出させた。

2 ついで被控訴人は、右希望調査に基づき慶応病院に就労希望の卒業予定者(この中には、第一志望を進学希望、第二志望を慶応病院での就労希望とした者も含まれる。)に対し、必要書類として履歴書、身元保証書等の前記書類の提出を求めたのである。しかも、被控訴人が控訴人らに対しかような書類の提出を求めるにあたり、将来面接を行い、これにより不採用となる場合もある旨をなんら表示していなかつた。

3 一般に身元保証契約は、雇用労働契約に附従するものであつて、雇用、労働契約のないところに身元保証契約だけが成立するということはあり得ない。

被控訴人は従前の卒業予定者で、慶応病院に就労希望者について身元保証書の提出を遅延させる者があり事務処理上困つたことがあつたので、便宜的に他の必要書類と合わせて、一括して提出を求めたに過ぎないというのであるが、身元保証書の提出が遅延したという事例は極めて例外的場合であり、このために事務手続上支障を来たしたことは実際上なかつたのであつて、被控訴人のかような主張は、控訴人らとの労働契約の成立を否定するための口実に過ぎない。このことは、他卒者が公募によつて慶応病院に看護婦として採用希望を提出した場合においては、必らず採用内定通知を出すのと同時に身元保証書の提出を求めていたことによつても裏づけることができる。

被控訴人は、本件学院生については、入学時及び養成期間を通じて慶応病院看護婦としての適格の有無を判断し、その適格があると判断した者を養成期間の満了時まで養成して来たのであるから、被控訴人としては養成期間の終了の段階において事あらためて慶応病院看護婦としての適格を判断する必要がなく、従つて、学院卒業生についての採用試験なるものはかつて一度も行われたことがなく、この点において他卒者等の外部からの採用希望者の採否判定手続と根本的に異なる。

従つて、本件学院卒業生の慶応病院就労のための手続としては、身元保証書の提出をもつて完結するものとされて来たのであり、その提出以後慶応病院に就労するまでの被控訴人側における手順は、前記一・(七)において述べたとおりである。

もつとも、被控訴人は、慶応病院看護婦として就労した者に対して辞令を交付するが、もともと労働契約は要式行為を伴わない諾成契約であつて、辞令の有無により労働契約の成立は左右されないのみならず、この辞令は、被控訴人就業規則任免規定第一〇条の「職員の地位及び職務は、その学歴、能力等を基礎として決定する。」旨の規定による看護婦の職務決定任命通知であり、労働条件の重要な事項である賃金を明示することを目的とするものである。

以上のような諸点から考えれば学院生に対し右の必要書類の提出を求める行為は、二回にわたる希望調査により、慶応病院に残る意思を明らかにした者として特定され、確認された者に対する労働契約締結の申込の意思表示であり、学院生が右書類を提出する行為は、右申込に対する承諾の意思表示にほかならない。

そうして、控訴人らは、昭和四二年一二月一〇日ころ被控訴人が求めた身元保証書等の必要書類を被控訴人に提出したのであるから、ここに、被控訴人との間において、昭和四三年四月一日を始期とする労働契約が成立したものといわなければならない。

三  (一) 以上のように、控訴人らと被控訴人間において前記一若しくは二で述べた契約に基づき昭和四三年四月一日を始期とする労働契約が成立していたのであるが、被控訴人は昭和四三年二月一〇日付で控訴人ら各自に対しいずれも「貴意に副いかねる‥‥‥」旨の文書(甲第一八ないし第二一号証)を発送し、控訴人らの慶応病院での就労を拒否する旨の意思表示をした。

右文書をもつてした被控訴人の就労拒否の意思表示は、既に控訴人らとの間に労働契約が成立している以上、控訴人らに対する解雇若しくは留保された解約権行使の意思表示と解するほかはない。

この点に関して、被控訴人は、右文書をもつてした意思表示は、被控訴人が二回にわたつて実施した慶応病院看護婦採用のための面接試験に控訴人らが合格しなかつたため、不採用通知をした文書である旨を主張するが、控訴人らを含め本件学院の五六回生全員については被控訴人の面接試験が実施されたことはない。すなわち、

1 被控訴人は、本件学院の卒業予定者中慶応病院に就労希望者については、従前から、一度も面接試験等を行うことなく、なんらの試験手続を経ないで全員を慶応病院に受け入れて来たものであるところ、被控訴人は、五六回生に限つて面接試験を実施したのは、この年度に前年度までの定員を倍増して八〇名としたため、詮衡に慎重を期する必要があつたからであると主張する。しかし、同年度において慶応病院就労を第一次志望とする者は三九名、第一次志望を進学とし、第二次志望を慶応病院就労とする者は一〇名であり、このうち第二次志望を慶応病院就労とする者は、ほとんど進学することが予想されるのであるから、慶応病院就労を第一次志望とする者全員に、これを第二次志望とする者のうちの慶応病院就労を予想される数名の者を加えたとしても、慶応病院に就労することを希望する者は、例年と大差がなく、希望者多数のため、特段に面接試験を実施しなければならない必要性はまつたく存在しなかつた。

2 のみならず、控訴人ら五六回生中慶応病院志望者が身元保証書等の前記必要書類を提出した後、松村総婦長若しくは赤倉病院長(いずれも当時)らと、数名のグループに分かれて会つたことがあるけれども、この際には、被控訴人側は「総婦長との話し合い」若しくは「病院長との話し合い」が行われるから参集されたい旨を通知しただけであつて、面接試験が行われる旨を通知したことはなく、右志望者らはいずれも単に総婦長若しくは病院長と会つて、慶応病院での配属場所の希望を聞かれる程度のものと理解してその場に臨んだのである。

3 更に、被控訴人側が控訴人らを含めて慶応病院志望者に対し面接試験を行つたものであるとすれば、右志望者全員に対し面接試験が行われるはずであるのに、五六回生中慶応病院を第二志望とし、進学を第一志望としながら進学できなかつた者については、病院長との前記「話合い」の機会さえも持たないまま、昭和四三年四月一日から慶応病院に就労しているのである。

これらの事情から考えて、病院長、総婦長らとの話し合いは、面接試験といい得るものではなく、控訴人らと被控訴人との間の前記のような労働契約は、なんらの試験手続を経ないで、控訴人らが身元保証書等を提出した時点においてすでに成立していたものと認めらるべきであるから、被控訴人の前記文書をもつてした採用拒否の意思表示なるものは、控訴人らに対する解雇若しくは留保された解約権行使の意思表示にほかならない。

(二) 右解雇ないし解約の意思表示は、次のとおりの理由によつて無効である。

1 右解雇ないし解約の意思表示は、控訴人らの思想、信条、団体加入を理由とするものであつて、憲法第一九条、第二一条、第一四条及び労働基準法第三条、民法第九〇条に違反するから無効である。すなわち、

被控訴人は昭和四二年九月一日本件学院寮に、従前鐘が淵紡績株式会社の労務担当の社員であつた野村忠男を副舎監という名目で住み込ませて、寮生(学院生)の思想、信条、団体活動等を調査させていた。

控訴人らは、民主青年同盟(以下「民青同」という。)員であり、かつ、寮活動、自治会活動、サークル活動としてセツルメント活動等を活溌に行い、これらの活動の中心的役割を果し、本件学院の民主化斗争の先頭に立つていたのであつたが、野村忠男は、控訴人らのかような行動を逐一把握し、更に、慶応病院が従前民青同員ら共産党に関係する学院卒業者を、それと知りつつ採用して来たことは、管理者側において基本理念を欠如するものである旨の意見を述べ、これの排除を被控訴人に進言した。

野村のかような進言に基づき昭和四二年一一月慶応病院長及び総婦長らが従来の慣行を破つて急拠慶応病院就職希望者に対し面接を行う旨の内部的意思統一を行い、この慣行を破ることにつきなんらの予告も与えることなく話し合いと称してこれを実施したうえで、後日、これが面接試験であつたと称して、控訴人らがこの試験に合格しなかつたことを理由として、予定どおり控訴人らに対し前掲文書をもつて解雇若しくは解約の意思表示をしたのである。

このようなわけで、右解雇若しくは解約の意思表示は、控訴人らの思想、信条及び団体加入を理由とするものであつて、前掲憲法、労働基準法、民法の諸規定により無効であることが明らかである。

2 右解雇ないし解約には合理的理由がない。

前記の「貴意に副いかねる」との意思表示を、解雇と解するにしろ、留保された解約権の行使とみるにしろ、あるいは無名契約の解約と解するにしろ、それが無制限に許されるものと解すべきではなく就業規則等で定める解雇事由に当るとか、解約権留保の趣旨、目的に照らして社会通念上客観的・合理的で、相当であるとか、無名契約の性質、目的に照らし合理的であるとかの理由がなければならないのであつて、かような理由を具備しない解雇若しくは解約権の行使等は無効である。しかも、本件学院において三年間の養成を経て来た学院卒業予定者に対する解雇若しくは解約権の行使は、一般の公募による場合の採用内定取消の場合よりも一層制限して解釈されなければならない。

1 就業規則違反

被控訴人の「慶応義塾職員就業規則」に基づく「任免規程第四条」には、退職事由を、次のとおり列挙しており、この退職基準は制限列挙したものと解すべきである。

一、法令をもつて就業を禁ぜられた場合

二、休職期間の満了後、復職のできなかつた場合

三、身体若しくは精神の衰弱、故障その他に因り勤務にたえないと認められた場合

四、本人から退職を申出た場合

五、解任に該当する懲戒処分を受けた場合

六、義塾の都合によりやむを得ない場合

七、正当な事由なくして、無断欠勤一ケ月以上に及んだ場合

八、就任に際して提出した書類に重大な誤りがあつた場合

九、職務に適せず、成業に見込みのない場合

一〇、労働契約期間の満了した場合

一一、本人の死亡した場合

控訴人らには右退職事由に該当する事由がない。

2 被控訴人には、控訴人らを解雇若しくは解約の意思表示をするに足りる合理的理由もない。すなわち、控訴人らはいずれも真面目で、健康であり、本件学院における学科成績も、慶応病院における実習成績も、ともに優秀であり、本件学院の教務主任もこのことを認めている。

また、控訴人らは、慶応病院の看護婦の採用基準(この採用基準については後記のとおり)にも客観的に該当している。

控訴人らは、本件訴訟を通じて被控訴人に対し再三にわたり、控訴人らの就労拒否の理由をただしたが、遂に被控訴人はこの点について釈明を行うことができなかつたのであつて、このことは被控訴人自身控訴人らに対する解雇若しくは解約につき合理的理由若しくは正当の理由のないことを自認しているものである。

かようなわけで、被控訴人の控訴人らに対する解雇若しくは解約の意思表示は、就業規則違反であり、また合理的理由を欠き、解約権の濫用にあたるから、無効である。

四 仮りに、前記不採用の通知が解雇若しくは解約の意思表示でなく、「採用拒否」の意思表示であるとしても、被控訴人が採用拒否したことは違法であり、被控訴人は控訴人らを採用すべき義務がある。

すなわち、控訴人らに対する不採用通知は、控訴人らの思想、信条等を理由とするものであることは前記のとおりである。

ところで、労働基準法第三条は、使用者が労働者の信条等を理由として労働条件につき差別的取扱をしてはならない旨を明定しているのであつて、この規定は憲法第一四条、第一九条の精神に基づいて設けられた規定であるから、その解釈は憲法の精神に従つてなされなければならない。そうして、使用者が労働者の雇入れ若しくは採用に際して思想、信条等により差別することができるものとすれば、労働者からその思想、信条等の自由を奪い去り、不当に労働の機会を奪う結果となる。のみならず、労働基準法は労働契約関係の成立後に適用される規定のみから成り立つているのではなく、労働契約の成立以前や、成立過程において適用される規定(第一四条ないし第一八条)もある。そうとすれば、労働基準法第三条は労働契約の成立についても思想、信条等による差別待遇を禁止するものといわなければならない。

従つて、被控訴人が前記不採用通知をもつてした採用拒否の意思表示は、前記憲法の諸規定及び労働基準法第三条に違反して無効であり、控訴人らは右採用拒否がなかつたとすれば当然に慶応病院看護婦として被控訴人に対し労働契約上の権利を有する地位にあつたから、被控訴人は控訴人らを採用する義務がある。

五 仮りに、以上の主張がすべて理由がないとしても、被控訴人の控訴人らに対する採用拒否は、控訴人らの思想、信条等を理由として、控訴人らが有した慶応病院看護婦として就労し得るとの期待権ないし期待利益を侵害する行為であり、不法行為に該当する。

(一) 控訴人らの期待権ないし期待利益について

被控訴人は、附属養成所開設以来、控訴人らにつき採用拒否をするに至るまで、本件学院卒業生中慶応病院就労希望者を全員慶応病院に就職させることを承認して来たのであり、控訴人らにおいても本件学院卒業後希望すれば慶応病院に就職できることを確信しており、この確信を抱いていたのは当然である。そうして、本件学院の第三学年に至り二度までも慶応病院に残る意思があるか否か及び希望職場についても調査を受け、更に被控訴人の要請により慶応病院に就職するための必要書類として身元保証書等を提出した。身元保証書の提出は、一般に雇用若しくは労働契約の成立を前提とするものであることは、前記したところであり、かつ五五回生までは、右のような必要書類を提出した後は、被控訴人からの何らの意思表示をまたずに、自動的に四月一日から慶応病院に看護婦として就労して来たのであつて、このような慣行に照らして控訴人らが右必要書類を提出した後においては一層慶応病院看護婦として四月一日から就労できる旨の確信を深めたのは当然であり、この確信は法的に保護されなければならない。

更に控訴人らは前記のように慶応病院看護婦として働く意思のもとに本件学院に入学し、本件学院所定の学科、実習等の養成を受け、その各段階で慶応病院看護婦としての適格あるものと判定されて、養成の最終段階まで進み、学科試験及び実習成績ともにすぐれていたのであり、このことは本件学院側においても否定していない。

以上の諸点を綜合してみれば、控訴人らが慶応病院就労のため右のような必要書類を提出した後は、控訴人らにおいて昭和四三年四月一日から慶応病院看護婦として就労し得るとの期待権ないしは期待利益を有し、この期待権ないし期待利益は、当然、法的に保護さるべきである。

(二) 被控訴人は控訴人らの採用を拒否したのであるが、その採用拒否は違法行為である。

1 控訴人らの採用を拒否した理由は、控訴人らが日本民主青年同盟員であり、寮活動、自治会活動、セツルメント活動等のサークル活動において中心的役割を果していたことにあり、被控訴人は、前記寮副舎監野村忠男の調査によりこれを探知し、共産党関係者は慶応病院に採用すべきでないという方針を打ち出し、その結果控訴人らに対し採用拒否をしたのである。

そうして、このような労働者の思想、信条による採用拒否は憲法第一四条、第一九条、労働基準法第三条に違反する違法のものであり、私法的には民法第九〇条にいわゆる公序良俗に反する違法行為であることは、前述のとおりである。

2 それのみならず、右採用拒否には、合理的理由がない。このことは、解雇若しくは解約の無効理由について前記したところであるが、更に述べれば、控訴人らはいずれも真面目で、健康であり、学科成績も実習成績も優秀であり、慶応病院看護婦の採用基準にも合致している。すなわち、被控訴人は、昭和三六年頃慶応義塾労働組合の看護婦の採用基準を明らかにせよとの要求に対し、つぎのような七項目の基準を明らかにしている。

1 免許の所有者であること

2 年令的にはなるべく若いもの

看護婦 二五才

準看護婦 二一才

多少の例外はある。

3 健康であること

4 成績、内申書で書類詮衡し、特に問題ないと考えられるもの

5 面接上当病院の業務に耐えられるもの

6 戸籍上特別の問題ないと考えられるもの

7 病院の業務に馴れるまで入寮できるもの

控訴人らがこの採用基準のすべてに合致することは明らかである。

3 控訴人らは、被控訴人側の赤倉病院長、松村総婦長らと「話合い」の場を持つたが、仮りにこの席が被控訴人主張のような面接試験であるとしても、その面接試験の内容は松村総婦長との場合には、控訴人らについて適格に問題がないと判定されたが、赤倉病院長との場合には、同病院長と控訴人らとの間に政治的見解、人生観について意見が分かれ、被控訴人側はこの点を重視して、面接試験において控訴人らが慶応病院看護婦として不適格である旨の判定を下したのである。

しかし、かような点を理由として控訴人らの就労を拒否することは、著しく合理性を欠く。

4 被控訴人は本件学院卒業生については希望者を全員慶応病院に就労させて来たのであり、このことは、被控訴人が附属養成所を創設して以来確固とした慣行となつていた。被控訴人において若しこの慣行を破ろうとするのであれば、この慣行を信じている本件学院生、すなわち五六回生に対してその旨を予告するのが当然の措置であり、何らの予告なくして本件学院生に損害を与えることは許されない。しかるに、被控訴人は、控訴人らが身元保証書を提出した後昭和四三年二月一〇日突如として控訴人らに対し採用拒否を通知したのであり、これはいわば闇打ち、だまし打ちであり、かような卑怯な行為は社会通念上許されるべきものではない。

5 病院は人の生命を預る機関であり、慶応病院は社会的名声も高く、公共的使命は重い。この慶応病院において看護婦が不足し、十分な看護ができない状態に陥り、このような事情から控訴人ら五六回生から本件学院生の定員を二倍に増加したのである。このような看護婦の慢性的不足の状態にあるにもかかわらず、看護婦として十分な適格のある控訴人らを採用拒否することは社会的に見て許すことのできない行為である。

右(一)、(二)の諸点を考量すれば、被控訴人の控訴人らに対する採用拒否は、民法第七〇九条の不法行為に該当し、被控訴人は控訴人らの被つた損害を賠償すべき義務がある。

六 控訴人らは第一次的に被控訴人との雇用ないし労働契約の存在を前提として、平均的勤務形態により本給、残業手当、一時金等の賃金の支払を求めるものであり、その賃金は、昭和四三年四月一日以降昭和四六年三月末日までは別紙債権目録(一)の債権額欄記載のとおりであり、同年四月一日以降昭和五〇年四月末日までの賃金は、別紙債権目録(二)記載のとおりである。

そうして、昭和四六年四月一日以降の賃金の計算方法は、次のとおりである。

すなわち、昭和四六年四月以降毎年、ベースアツプ、定期昇給、各手当の増額が行われ、別紙債権目録記載の債権欄記載のとおりとなつた。なお、同債権目録債権額欄記載の金額のうち、Aは控訴人吉沢扶佐子、同山口つぎであり、Bは控訴人深町文子、同国井智恵子である。控訴人深町、同国井は、共に、昭和四八年九月に出産したが、慶応病院においては、妊娠した後は、夜勤を行わないことができるので、昭和四八年一月からは、同人らは夜勤を行わなかつたこととして夜勤手当、残業手当等を算入しないで計算したものである。

その他の計算方法は、

基本給      昭和四六年四月~同四七年三月 月額 金四九、五〇〇円

昭和四七年四月~同四八年三月 月額 金五五、七〇〇円

昭和四八年四月~同四九年三月 月額 金六四、七〇〇円

昭和四九年四月~同五〇年三月 月額 金八五、〇〇〇円

昭和五〇年四月        月額 金八八、七〇〇円

勤続給      昭和四六年四月~同四七年三月 月額 金三〇〇円

昭和四七年四月~同四八年三月 月額 金四〇〇円

昭和四八年四月~同四九年三月 月額 金五〇〇円

昭和四九年四月~同五〇年三月 月額 金六〇〇円

昭和五〇年四月        月額 金七〇〇円

調整手当     昭和四七年四月~同四八年三月 月額 金五、六〇〇円

昭和四八年四月~同四九年三月 月額 金一一、六〇〇円

昭和四九年四月~同五〇年三月 月額 金一二、八〇〇円

昭和五〇年四月        月額 金一三、三〇〇円

住宅補助特別手当 昭和四九年四月~同五〇年四月 月額 金二、〇〇〇円

物価手当     昭和五〇年一月~同五〇年四月 月額 金一〇、〇〇〇円

残業手当     昭和四六年四月~同四七年三月 月額 金一四、六二三円

昭和四七年四月~同四八年三月 月額 金一八、二二五円

昭和四八年四月~同四九年三月 月額 金二二、九二〇円

昭和四九年四月~同五〇年四月 月額 金二九、八〇〇円

病棟夜勤手当   昭和四六年四月~同四七年三月 月額 金三、〇〇〇円

昭和四七年四月~同四八年三月 月額 金五、〇〇〇円

昭和四八年四月~同五〇年四月 月額 金七、〇〇〇円

その他諸手当   昭和四六年四月~同四九年三月 月額 金九九〇円

昭和四九年四月~同五〇年四月 月額 金六、六〇〇円

一時金      昭和四六年 夏         金一一二、六八〇円

冬         金一六〇、二〇〇円

昭和四七年 夏         金一三九、〇六二円

冬         金二〇二、四二六円

昭和四八年 夏 控訴人吉沢・山口 金一七七、八九六円

控訴人深町・国井 金一六四、四六〇円

冬 控訴人吉沢・山口 金二七九、四〇〇円

控訴人深町・国井 金二五八、四〇〇円

昭和四九年 夏 控訴人吉沢・山口 金二四六、〇七〇円

控訴人深町・国井 金二三一、七二〇円

冬 控訴人吉沢・山口 金三五五、四七〇円

控訴人深町・国井 金三四六、一二〇円

そうして、控訴人らは、昭和五〇年五月一日以降復職に至るまで別紙債権目録(二)記載の同年四月分賃金と同額の金員の支払を求める。

従つて、被控訴人は控訴人らに対し、それぞれ、別紙債権目録(一)及び(二)記載の各債権額欄記載の金員に同債権目録記載の各支払期日の翌日から完済まで民法所定の年五分の遅延損害金を附加して支払う義務があり、控訴人吉沢、同山口に対し、それぞれ、昭和五〇年五月一日以降復職に至るまで別紙債権目録(二)の昭和五〇年四月分賃金欄のA掲記の金員、控訴人深町、国井に対し同年五月一日以降復職に至るまで同債権目録の同年四月分賃金欄のB掲記の金員を支払うべき義務がある。

つぎに、若し、控訴人ら主張の雇用ないし労働契約の成立が認められないときは、少なくとも被控訴人の採用拒否は不法行為であることは前記五において詳述したところであり、控訴人らは被控訴人のこの不法行為がなければ、当然昭和四三年四月一日以降慶応病院に就労し、右に述べた賃金を得ていたはずであるから、被控訴人の不法行為により右賃金相当の損害を被つた。従つて、被控訴人は、控訴人らに対し請求の趣旨第三項記載の金員を支払うべき義務がある。

なお、控訴人らは被控訴人の採用拒否により慶応病院看護婦として働きたいという希望を踏みにじられたことによつて、精神的損害を被むり、この精神的損害は右金員に勝るとも劣らない。

被控訴人の補足した主張

一  本件学院の目的について

本件学院は、慶応病院に限らず、いずれの病院その他医療施設においても看護婦としての業務を遂行するに適する一般の看護婦を養成することを目的とする学校であり、控訴人らの本件学院生は、看護婦としての教育と実務の習得を目的として入学した学生であるに過ぎず、入学に際し控訴人ら主張のような契約の成立があるわけがなく、学院生が控訴人ら主張のような養成工類似の地位にあるものではない。

1 本件学院の目的がこのようなものであることは、本件学院の学則第一条が「本学院は慶応義塾の教育方針に則り独立自尊の気風を涵養し、看護婦に必要な学術技能を習得させることを目的とする」旨を明定することによつて明白であり、その教育方針が慶応義塾の教育方針に則つて行われるのは、本件学院が学校法人慶応義塾すなわち被控訴人の設置する学校である以上当然のことであり、この趣旨は全塾を通じて共通である。

本件学院の前身である附属養成所の開設当時は、同養成所の卒業者は、一定期間慶応病院に勤務すべき旨の義務規定が同養成所の規則に定められてはいたが、この規定は昭和一七年六月二〇日の改正により廃止され、純然たる看護婦としての学術技能を習得させることを目的とする学校としての基本方針が明確にされ、その後何回かの規則改正が行われて来たが、本件学院の目的は終始不変であつて、これを堅持して今日に至つている。

なお、昭和一七年の右規則改正について附言すれば、その頃制定・強行された労務者募集規則及び労務調整令により労務者の募集等が規制され、これらにつき国民職業安定所長(又は国民勤労動員所長)の認可を得なければならなくなつたところ、従来の養成所規則によれば、生徒の募集と労務者の募集とが混然となつていたきらいがあつた(卒業後の勤務の義務づけ等の規定があるため)ので、附属養成所は純然たる学校として生徒募集に当るべきであるとして、右の基本方針が明確にされたのである。

2 本件学院は右に述べたとおり純然たる学校であつて、慶応病院看護婦を確保するための被控訴人の企業内の養成所ではない。すなわち、企業内養成所であるとすれば、学院生らは、すべて、被控訴人との雇傭契約を前提とする企業内労働者という身分を持つはずであるが、本件学院生は、看護婦としての教育を受け実務を習得する純然たる学生としての身分をもつに過ぎず、後に述べるように、卒業後は、自己の自由意思に基づき、ある者は進学し、ある者は他の病院その他の診療所等に就職し、またある者は慶応病院に就職して来たのである。もつとも、本件学院自体は、被控訴人経営にかかるものであるという意味において、その一部であるということができるが、本件学院生は被控訴人となんら労使の関係にあるものではない。被控訴人が経済的出資をし、その犠牲において本件学院を経営し、看護婦の養成にあたつているが、このことをもつて、被控訴人が慶応病院看護婦の労働力を確保することを目的とするものであるというのは、極めて皮相な見解である。現状に照らして、被控訴人はじめ権威のある医学部を抱える大学その他の機関が一般看護婦の養成を行わない以上、他に公的・私的の機関で、看護婦養成にあたるものはなく、被控訴人が右のように経済的出資をして本件学院を経営して来たのは、被控訴人に負わされた公的・社会的責任に応ずるためのものである。

ここで、被控訴人が設定している本件学院生に対する奨学金制度について触れれば、この制度が本件学院生に対する事実上の足留め策でないことは、控訴人らの第五六回生についてみれば、卒業生六九名中控訴人ら四名を除く六五名のうち慶応病院に就職した二七名及び病気の者一名を除く三七名は、それぞれ、慶応病院就職以外の進路を選択しており、これらの者は、その者の自由な意思決定によりその進路をとつたのであつて、このことによつても事実上の足留めでないことは明らかである。そうして、奨学金は、その貸与を受けるか否かは、もともと自由であつて、借り受けたものは返還するのが借主の当然の義務であり、返還債務の免除は単なる恩恵的措置に過ぎないのである。

二  本件学院における入学許否の判定及び学院生に対する指導・教育について

1 本件学院が学生を募集するについては、一般の学校における学生募集と同様に、毎年七月ころ募集要項が作成され、公募されたうえ、入学試験が行われて、合否の決定がなされるが、その合否の判定は、慶応病院看護婦としての適格の有無までも判定したうえでなされるものではない。一般に学校入試の場合、筆記、面接、身体検査の三段階によつて総合判断されるのは通常の形態であつて、本件学院においてもこれと同様の方法により総合判断していたのである。総婦長が面接試験に立ち会つたのは、同人が本件学院の講師を兼務しており、永年看護婦の途に携わる学識経験者として、一般的に将来の看護婦としての適性を判断するためであり、このため、入学試験において、既に、慶応病院の看護婦として採用するに適するかどうかが判断されるとすることは正当でない。

2 入学式等の学院の式典の際に、病院長、医学部長、総婦長らが学院生に対して将来慶応病院に残つてもらいたい旨を述べたとしても、これは、学院生を激励し、病院側の希望を述べたものであつて、このような挨拶、式辞が特別の法律的意味を持つものと解すべきではない。

3 本件学院における教育実習について

(イ) 本件学院は、厚生省医務局長・文部省大学学術局長より都道府県知事を経由して、本件学院を含む看護婦養成を目的とする学校に対してなされた看護婦学校養成所指導要領に基づいて、学院生の教育実習に当つているのである。この指導要領(乙第三号証)は、当然のことながら、学校と学生という立場を前提としている。

(ロ) 本件学院の授業は、物理・化学・外国語・体育・音楽等の基礎科目と、医学概論・解剖学・生理学・公衆衛生学・看護学等専門科目にわたつて行われ、授業時間は原則として週三三時間である。

また、実習は、臨床実習指導要綱(乙第五号証)に基づいて行なわれるが、第一学年の時には主として見学実習、第二学年に入つてから具体的な各科看護実習が行われる。そして実習の場所には、慶応病院の各科外来および病棟が利用されるが、慶応病院に実習施設のない精神科看護・公衆衛生看護等の実習については、桜ケ丘精神病院及び各保健所へ出張の上実習がなされる。

(ハ) 右教育実習は、文部省の行政指導に基づきカリキユラムが組まれたものであり、本件学院だけがこれを無視して独自なカリキユラムを組むことはできないのである。

何故ならば、本件学院は、他の看護婦養成学校と同様に、どこの病院においても看護業務の遂行ができる看護婦を養成するのが目的であり、監督官庁が行政指導をする目的の一端もそこにあるからである。

(ニ) 本件学院生の実習のため、慶応病院は、学生指導係として数名の看護婦をさき、これに専任させているが、この外に、各科の婦長、主任看護婦も兼任で、実習指導に当つており、更に夜勤実習の場合には、それらの実習指導が夜勤婦長・主任並びに看護婦に依頼されている。従つて、本件学院生の実習は、一般看護婦にも責任と負担を与えているのである。控訴人らは、本件学院生の実習は補助労働であると主張するが、決して、そのようなものではなく、かえつて、現実には右に見るとおり病院と看護婦の負担において、実習が行われていると言つても過言ではないのである。

(ホ) 以上のように、本件学院における実習は、実態的に見ても、学院生が一般看護婦になるために履習の課程として当然踏まなければならないカリキユラムの一部である。慶応病院では実習のできない精神看護、公衆衛生看護等について桜ケ丘精神病院、各保健所に出張させ実習をさせているのも、学生を一般看護婦として養成するという公的使命に基いて被控訴人が教育指導にあたつていることの証拠である。

例えば、控訴人らが補助労働と主張するシーツ交換等の比較的単純な看護業務ですらも、患者のその時々の状況や病気の種類により、必然的に異なる処置が要請される場合が多く、しかもこれを反覆することによつて病状の変化を正確に把握し、患者との人間関係の形成の仕方を知るのであり、これらの実習を反覆することにより実習の効果が一層上るのである。

三  本件学院生の卒業時の進学就職指導及び就職の状況について

1 本件学院は、毎年一二月中旬ころ翌年度卒業見込者に対し希望進路を聴取する。本件学院生は進学するか、就職するとすればどこの病院、診療所に就職するか等を全く自由な意思により決定し、本件学院側では、進学希望者及び他病院、他診療所に就職を希望する者については、成績証明書、卒業見込証明書等の書類を作成して先方の病院等に送付し、また進学、就職の相談に応じることとしている。

2 本件学院卒業生中慶応病院に就職した者の比率は、次のとおりである。

本科生の場合

昭和四〇年三月 六五・八〇パーセント

同四一年三月  五六・三〇〃

同四二年三月  七九・四〇〃

同四三年三月  三九・一〇〃

同四四年三月  五〇・〇〇〃

同四五年三月  六〇・三〇〃

同四六年三月  四一・八〇〃

別科生の場合

昭和四一年八月 四一・九〇パーセント

同 四二年八月 五六・七〇〃

同 四三年八月 七一・九〇〃

同 四四年八月 四六・七〇〃

同 四五年八月 一六・七〇〃

同 四六年八月 五五・九〇〃

従つて慶応病院に就職した学院卒業生の率は、本科生の場合、三九・一パーセント乃至七九・四パーセントであり、別科生の場合には、一六・七パーセントないし五六・七パーセントである。

かように慶応病院に就職した本件学院卒業生の比率は必ずしも高いとはいえない。

このうち、昭和四三年度卒業の控訴人ら五六回生の就職状況の実数を述べれば、卒業予定者六九名のうち、第一志望を進学、第二志望を慶応病院就職とした者九名を含めて、慶応病院希望者は四九名であつたが、この四九名中四四名が被控訴人の行つた採用考試に合格し、控訴人らを含む五名が不合格とされ、右四四名中、九名が上級学校入試に合格し、更に、残りの者の中八名が他の病院に採用されて脱落し、結局、慶応病院に就職したのは二七名であつた。

もつとも、第五五回生までは本件学院卒業生中慶応病院の就職希望者はほとんど全員採用されて来たが、これは無条件に採用されたのではなく、次に述べるような被控訴人の行う採用考試に合格したからである。

四  慶応病院の看護婦採用手続について。

(一) 看護婦募集人員は前年度三月被控訴人の予算編成の際、病院における外来、病棟の収入、人件費等の支出、退職者の概算、病院業務の繁閑等を考慮したうえで、決定され、その決定には本件学院卒業生の数は考慮されることがない。

慶応病院に就職を希望する者は、本件学院卒業見込者中の応募者と、それ以外の応募者(いわゆる他卒者)に分れるが、これらを通じて、被控訴人はすべての希望者に対し履歴書、戸籍謄本、成績証明書、写真等の必要書類を提出させ、面接をする場合は面接日を通知する。被控訴人は、応募者の提出した全資料により書類詮衡若しくはさらに面接をしたうえで、採否を決定し、採用者に対しては雇用契約が成立した証として辞令を交付する。

本件学院卒業見込者中の応募者については、五五回生以前は主として書類詮衡などにより選抜して来たが、五六回生以後は、定員が倍増したため、採用をいつそう慎重にするため、書類詮衡と面接を併用したのであつた。

(二) 控訴人ら五六回生の場合の採用手続について

五六回生の場合、慶応病院の松村総婦長が昭和四三年一月一〇日より同年三月三〇日まで欧米に出張するため、出発までに書類審査と第一次面接ができるよう必要書類の提出を例年より幾分早めて昭和四二年一二月一〇日ころまでとした。

そうして慶応病院は、慶応病院就職希望者全員に対して、本件学院の教務またはクラス担任教師を通ずる等の方法により、応募に必要な用紙を交付し、履歴書、身上書、身許調書、戸籍謄本、写真等の必要書類を提出するよう伝達した。

慶応病院は、その際応募の資料として乙第六号証の「当院の状況」と題する書面を本件学院生中慶応病院就職希望者に本件学院を通じて交付したが、この書面は、募集案内または就職案内に相当するものであつて(なお、慶応病院においては、このほかに本件学院卒業見込者のための募集案内等は用意していない。)、これには慶応病院の現況のほかに、看護婦の労働条件、所要の提出書類等が記載され、新採用者の入寮、各種休暇のこと等が記載されており、注意書として、「書類を拝見した後に面接日を御連絡いたします。」旨が附記されている。これは、当然のことながら詮衡のあることを予定するものである。

被控訴人は、応募者から提出された書類に基づき書類審査をし、昭和四二年一二月二一日第一次面接、翌四三年一月一七日第二次面接を実施し、その結果、不採用者と採用内定者を決定し、控訴人らを含む五名に対しては不採用の旨を通知し、その余の四四名に対し採用内定通知書を送付した。そうして、この採用内定者中、最終的に進学者、他の病院その他診療所等への就職の決定者を除いた二七名に対し、昭和四三年三月一六日付で採用通知書を送付し、ついで辞令が交付された。

かように、慶応病院看護婦の採用は、従前から被控訴人の行う採用考試(書類詮衡若しくはこれに面接を併用したもの)に始まり辞令の交付に終る一連の採用手続を経てなされるのであつて、控訴人らの主張するように本件学院卒業後は自動的に慶応病院に就職、就労するということはあり得ない。

五  被控訴人は、昭和四二年一二月一〇日ころ慶応病院就職希望者から他の必要書類とともに身元保証書を提出させるため身元保証書用紙を先渡ししたのであつたが、これは雇用契約の存在を前提としたものでなく、事務的、便宜的措置に過ぎない。すなわち、

(1) 被控訴人は、従来から看護婦を採用しようとする場合、そのものに身元保証人二名を特定してつけさせその連署による身元保証書を提出させてきた。そして保証人二名のうち一名は父母その他の近親者、他の一名は東京都内に居住するものと指定してきた。その提出の方法は、採用が内定若しくは決定した時点でその用紙を被決定者に交付し、採用の四月一日に間に合うよう至急、その取揃え、提出方を求めてきたのである。

(2) ところが一旦採用が内定若しくは決定してしまうと、被決定者は、とかく他事に紛れ、または安易感からか、身元保証書の提出をなおざりにすることが多かつた。そのため、三月中に身元保証書が提出され、そのうえで四月一日に発令となるべきものが、再三にわたつて督促を受けた結果、二、三カ月を徒過してようやく五、六月頃提出してくる有様となり、しかも、そのほとんどが提出時点の年月日を記入せず三月中の日付を記入してくる始末であつた。このため、被控訴人の辞令交付事務及び採用手続事務の完了は、毎年渋滞の状態を繰り返していたのである。

(3) そこでその遅延の理由を検討すると、東京都内居住者の保証人の署名は直ちに取り得るが、父母等近親者の分は、それらが遠隔地に居住する場合が非常に多く、これが身元保証書提出遅延の大きな理由であると考えられたので、昭和四〇年頃からは、慶応病院就職希望の本学院卒業見込者に対しては、その卒業の前年一二月中に、履歴書・身上書等応募に必要な一件書類と共に、身元保証書の用紙を事前に交付し、これによつて応募学院生が、年末年始の帰省時に予め父母等の近親者の署名を取り、採用後いつでも提出できるように準備させたのである。

身元保証書用紙の先渡しが事務的、便宜的措置に過ぎないことは、第一志望を進学、第二志望を慶応病院就職とした前記九名の者(これらの者が慶応病院に就職する可能性はほとんどない。)についても身元保証書用紙の先渡しがなされ、上級学校の入学試験前にこれらの書面が提出されたことによつても裏づけることができる。

従つて、身元保証書は、本来は、応募者が事前に保証人の署名を取つて準備し、採用が内定し若しくは決定し、提出を求められた時点で提出すべきものであるが、それが誤つて、採用される以前の年月日が記入され、かつ他の必要書類とともに提出されたとしても、その身元保証書は、採用決定を条件として効力の生ずべきものであることは、身元保証契約が雇傭契約(すなわち採用)を前提として、これに附随するものであることからみて明らかである。

六  以上述べた事実によつて明らかなように、控訴人らの入学時において被控訴人との間に控訴人ら主張のような始期付、解約権留保付き雇用契約若しくは養成工契約類似の無名契約が成立したことを肯定すべき証拠資料はなにも存在しないし、被控訴人においては、本件学院生との間にかような契約を締結すべき意思も、必要も存在しない。昭和四二年一二月一〇日ころ控訴人らが身元保証書等の必要書類を被控訴人に提出した時点で、昭和四三年四月一日を始期とする労働契約が成立したという控訴人らの主張についても同様である。控訴人らのこのような主張は通常の雇用形態からみれば特殊、異例のことに属するが、本件学院の学則、入試要綱等の書類には、かような雇用形態を承認することをうかがわせるような特約事項は、片鱗も記載されていないのである。控訴人らの主張は希望的観測と現実とを混同するものにほかならない。

七  控訴人らと被控訴人間には、雇用契約はなく、なんらの労使関係がないから、控訴人らを採用しなかつたことは解雇にあたらない。従つて、本件不採用通知が解雇にあたることを前提とする控訴人らの主張は、すべて失当である。

控訴人らは本件不採用通知が解雇でないとしても被控訴人は控訴人らを採用する義務があると主張するが、両当事者間において本件学院の卒業後は特別の理由がない限り慶応病院に採用しなければならないとする合意も契約も一切存在しないのであつて、被控訴人に控訴人らを採用する義務のないことは当然である。

控訴人らは、控訴人らに対する採用拒否は思想、信条による差別的取扱であり、労働基準法第三条に違反する旨主張するが、未だ労使関係に入る以前の採否の問題は、同条にいう労働条件に該当せず、同条の適用はないものというべきである。しかも、被控訴人は、本件不採用は控訴人らの思想、信条によるものであることを表明したことがなく、これを理由として控訴人らを不採用と決定したものではない。

さらに、被控訴人が控訴人らを不採用と決定したことは、控訴人らの権利ないし法的利益を侵害したものではない。けだし、控訴人らには被控訴人に採用されるという、法的保護に値する期待利益を有しないからである。控訴人らの有した期待は、希望的観測若しくは過信に過ぎない。

八  別紙債権目録(二)記載の賃金に関する控訴人らの主張はすべて認める。

控訴人らの当審におけるその余の主張中被控訴人の前記主張とてい触する趣旨の主張はすべて争う。

理由

一  被控訴人は、私立学校法第三条により設立された学校法人であること、本件学院は、被控訴人により設置された施設であり、被控訴人の教育方針に則り看護婦に必要な学術技能を習得させることをその目的として掲げるものであること、控訴人らはいずれも昭和四〇年四月本件学院本科課程(本件学院には本件課程のほかに、別科課程のあることは後に述べる。)に第五六回生として入学し、昭和四三年三月一三日本件学院本科課程を卒業したこと、被控訴人は同年二月一〇日控訴人らに対し、それぞれ、控訴人らを慶応病院看護婦に採用しない旨を通知し、控訴人らが同病院で看護婦として就労ないし勤務することを拒否していることは、当事者間に争いがない。

二  控訴人らは、(イ)控訴人らが本件学院に入学した際すでに、被控訴人との間において、控訴人らが本件学院において慶応病院看護婦として養成を受け、卒業前に身元保証書等の慶応病院看護婦として就労するための必要書類を提出する時期までに、合理的理由をもつて控訴人ら若しくは被控訴人が控訴人らの慶応病院看護婦としての就労を拒否しない限り、同学院卒業後の昭和四三年四月一日から慶応病院看護婦として就労する地位を取得する旨の養成契約及び始期付き、解約権留保付き労働契約ないしは養成工契約類似の一種の無名契約が成立したものであり、(ロ)仮りにそうでないとしても、控訴人らが慶応病院看護婦として就労するための必要書類である身元保証書を提出し、被控訴人がこれを受領した昭和四二年一二月一〇日ころに、就労の時期を養成期間終了後の昭和四三年四月一日とする労働契約が成立した旨を主張する。そうして、控訴人らは、いくつかの間接事実に基づく総合判断として、このような契約の存在が認められるべきであると主張するので、以下、控訴人らが主要な間接事実として主張することがらにつき考察を加える。

(一)  本件学院の沿革及び目的

成立に争いのない甲第一号証、同第九号証、乙第一号証の一ないし五、同第二号証の一ないし四、本件口頭弁論の全趣旨によりその成立を認めることのできる同第三号証、原審証人内藤寿喜子、当審証人前田照子の証言及びこれらの各証言により成立を認めることのできる乙第五号証及び当審証人木下安子の証言並びに成立に争いのない甲第四九号証を合せ考えれば次の事実を認めることができる。

1  本件学院は、創設の沿革に遡れば、被控訴人が大正六年被控訴人の経営する慶応義塾大学部医学科(当時の名称)に病院を付設するに伴い、「慶応義塾大学部医学科附属病院における看護婦を養成するため、看護の方法を教授する」ことを目的として(慶応義塾大学医学科附属看護婦養成所規則第一条)、同年一二月認可を受け、翌大正七年四月から発足させた「慶応義塾大学部医学科附属看護婦養成所」に始まる。そうして、右養成所規則によれば、「授業料及び入学金は徴収せず」(第一五条)、看護婦生徒には日当金を支給し、制服、制帽及び寝具を貸与し、院内(病院内の趣旨と認められる。)に寄宿せしめる」(第一六条)、看護婦生徒は卒業の日より満二か年間……医学科附属病院の看護婦として勤務すべき義務がある」(第一八条)旨が定められていた。

2  その後「慶応義塾大学医学科」が「慶応義塾大学医学部」と改められたのに伴い、養成所の名称は「慶応義塾大学医学部附属看護婦養成所」と養成所規則の名称は「慶応義塾大学医学部附属看護婦養成所規則」と、それぞれ改められたが、昭和一五年一一月二〇日厚生省令第五〇号労務者募集規則が、ついで昭和一七年一月一〇日勅令第一〇六三号労務調整令がそれぞれ施行されたのを契機として順次養成所規則が改正され、昭和一七年六月二〇日改正の認可を得た同規則においては、その目的については、「本所は看護婦に必要なる学術を教授し且つ実務を練習せしむるを以て目的とす」(第一条)と定め、修学年限を三年に引きあげた(第二条)ほか授業料・入学金の不徴収、手当金の支給、院(病院)内寄宿、卒業後の勤務義務等に関する旧規定を廃止し、新たに、授業料を納付すべきものとし(第一四条)「看護婦生徒は本所(養成所の趣旨と解される。)に宿泊せしめるもの」とした(第一五条)。この改正の動機は、旧養成所規則の下では、看護婦生徒を募集することが前記労務者募集規則、労務調整令にいう労務者の募集ないし従業員の雇入に該当する(従つてこれにつき所轄庁の認可を要する等の規制を受けることとなる。)疑いがあるところから、この疑いを避け、「養成所を純然たる学校とし生徒を募集入学せしめる」趣旨(成立に争いのない乙第一号証の一は、慶応義塾大学医学部の禀議書であるが、これに改正の趣旨がそのようにうたわれている。)から出たものと認められる。

3  その後終戦をむかえ、看護婦の人権の尊重とその地位の向上の必要性が唱道される背景の下で、昭和二三年七月三〇日法律第二〇三号をもつて保健婦助産婦看護婦法(以下保助看法という。)が公布され、一部改正を経て昭和二五年四月一日から施行された。この法律は、「保健婦、助産婦及び看護婦の資質を向上し、もつて医療及び公衆衛生の普及向上をはかる」ことを目的(第一条)とするものであつて、この目的を達成するために、「看護婦になろうとする者は……看護婦国家試験に合格し、厚生大臣の免許を受けなければならない」(第七条)ものとし、看護婦国家試験の受験資格として、「文部大臣の指定した学校において三年以上看護婦になるのに必要な学科を修めた者」等の資格要件を定め(第二一条)、同法に基づく保健婦助産婦看護婦学校養成所指定規則(昭和二四年五月二〇日文部・厚生省令第一号、以下指定規則という。)は、右指定を受けるための要件を定めている(同規則第七条)。そうして、指定規則は、その後何度か改正されたが、控訴人らが本件学院に入学した当時(昭和四〇年)の同規則によれば、右指定を受けるための要件として、入学資格は高等学校卒業程度であること、修学年限は三年以上であること、教育内容は別表三に定めるもの以上であること等を定めている(第七条)ところ、当時の別表三によれば、教育内容は、学科目についての授業と臨床実習とからなり、学科目のうちには、化学、教育学、心理学、社会学等の一般教養的科目も含まれ、臨床実習については、各科についての病室等における実習と外来実習を行うべきものとし、それぞれにつき履修時間数(実習については、週単位で表示されている。)が指定されている。(なお、当時の別表と指定規則施行当初の別表とを比較してみると、前者においては、一般教養的学科目の数及び履修総時間数が増加しているのにひきかえ、実習の履修週数はむしろ減少している。)。これらの点からみれば、保助看法及び指定規則は、看護婦等の資質を向上させるため、国家試験を前提とする免許制を採用する前提として、看護婦養成の課程がいわゆる徒弟制度的なものから脱皮して、学校における学生の教育として教育内容が充実さるべきものとの見地に立つものであつて、指定規則の改正もこの見地の下に行われたものと認められ、それなればこそ、所轄庁においても、同様の見地から、通達(昭和三二年四月五日医発第二〇四号医務局長・文部省大学学術局長発各都道府県知事宛通達「看護婦学校養成所指導要領」)(乙第三号証)を発するなどして行政指導を行つていたものと認めることができる。

そうして、本件学院においては、保助看法の施行(昭和二五年四月一日)を機会に、その名称を「慶応義塾大学医学部附属厚生女子学院」と改めるとともに、その規則を改正して、当時の指定規則別表三に定める基準を充たす学科目及び臨床実習のカリキユラムを定め、昭和二五年四月一七日文部省告示第二五号をもつて、右指定規則所定の基準を充たすものとして、保助看法第二一条第一号の指定を受け、その後指定規則及び通達が改正されたのに応じて、学科目及び臨床実習のカリキユラムを改め、これを実施してきたことを認めることができる。(なお、学科及び実習の内容、実態については、後に認定する。)

右昭和二五年の厚生学院規則においては、目的を「甲種看護婦に必要な学術技能を習得させると共に必要な高等教育を施すこと」と定め(第一条)、授業料のほかに、新たに入学料を徴収すべきものとし、給費制(学資を貸与する制度)を採用した。その後昭和三七年四月一日から施行された本件学院の規則(学則)においては、目的を「慶応義塾の教育方針に則り、独立自尊の気風を涵養し看護婦に必要な学術技能を習得させること」と定め、本件学院に本科課程のほかに、いわゆる準看護婦の資格を有する者を正看護婦に養成するための教育課程である別科課程におくこととしたが、右目的規定は、その後の改正学則においても、そのまま維持されて現在に及んでいる。(なお、右昭和三七年の改正以後、入学料は入学金と、給費制は貸費制と改称された。)。

4  以上は、主として、法律及びこれに基づく規則の変遷とこれに対応する養成所規則ないし学院の規則の変遷の観点から本件学院の法的性格、目的を考察したのであるが、この観点からみる限り、少くとも、保助看法が施行され、指定規則により本件学院が同法第二一条第一号の指定を受けた頃から以後においては、本件学院は、「看護婦に必要な学術技能を習得させること」という目的、換言すれば、慶応病院に限らず、いずれの病院その他の医療施設においても看護婦としての業務を遂行することのできるような看護婦を養成することという公的目的をもつ学校(学校教育法第八三条にいう各種学校と認められる。)としての性格をもつものということができるであろう。

もつとも、昭和三七年度以降の学則の目的条項中には「慶応義塾の教育方針に則り独立自尊の気風を涵養し」なる文言がうたわれていることは前述のとおりであるが、それは、本件学院が慶応義塾という独自の教育方針をもつ被控訴人法人によつて経営される私立の教育施設であるところ(この事実は、控訴人らにおいても、明らかに争わないところと認められる。)から、学院生の教育に右のような教育方針を反映させる趣旨から出たものであつて、このことのために、前記の公的目的の遂行が妨げられることとなるものとは解されないので、目的条項中にこのような文言があることは、前認定の妨げとなるものではない。

なお、前掲木下証言及び甲第四七ないし第五一号証は、本件学院の実態認識に関する証拠としては採用しがたいものであることは後に述べるとおりであるが、立法の経過事実に関する証拠として、上記認定を支持するものと認められその他に右認定を左右するに足る証拠はない。

しかしながら、控訴人らも主張するように、養成所ないし学院の規則等が改正されたということから、直ちに、附属養成所開設以来の実態までが改変されたと認めることは早計というべきであるから、ここでは、しばらく、最終的断定を下すことを差し控えることとし、以下において、控訴人らがその主張の根拠とする間接事実の主なものにつき考察を加えつつ、本件学院の実態につき検討する。

(二)  本件学院の経営に関する事項について

1  前述のように本件学院は被控訴人の経営する私立の教育施設であるところ、前掲乙第二号証の二、三に原審証人内藤寿喜子、当審証人牛場大蔵、前田照子の各証言をあわせれば、本件学院には学院長、主事、教務主任、教員(専任)、講師、事務職員等が置かれていたこと、学院長は校務を総括し、所属教職員を監督する者であつて、前記大学医学部の臨床担当の教授の中から被控訴人が選んで任命し、教務主任は教員の指導、生徒の教育、カリキユラムの編成、実習に関し、慶応病院側との連絡、打ち合わせ等の主要な校務を行う者であつて、慶応病院の看護婦長若しくは主任看護婦の中から被控訴人が選んで任命することとしていたこと、教員もこれと同様に被控訴人が同病院看護婦の中から選んで任命し、講師は、医学及び看護学に関する分野については主として前記大学医学部の教授、助教授、講師等若しくは慶応病院の医師、婦長らに委嘱していたこと、控訴人らが本件学院に在学した昭和四〇年四月から昭和四三年三月までの期間において、昭和四二年一一月以降前記大学医学部長(牛場大蔵)が学院長を兼務したほかは、その余の教職員らは右のような例により被控訴人が任命した者であつたことが認められ、この認定を妨げるに足りる証拠はない。

2  次に、成立に争いのない甲第一二号証に原審証人佐藤忠の証言をあわせれば、本件学院の収入、支出の関係は、前記大学医学部関係の収入、支出関係の一部として計上されていたこと、本件学院だけについてみれば、収入は支出に比べて甚だ少く、従つて収支関係で毎年度多額の損金が生じていたが、被控訴人が被控訴人の全体の財源からこの損金を補てんして本件学院を経営していたこと、この関係は控訴人らが本件学院に在学していたころも変りがなかつたことが認められ、この認定を妨げるに足りる証拠はない。

右認定の各事実に照らせば、本件学院は、人的にも経済的にも被控訴人と深く結びつき、被控訴人に依存して存立し、経営されて来たと認めることができる。

しかし、本件学院が経営面及び人的構成の面で被控訴人に依存していることが必ずしも、慶応病院に限らずいずれの医療施設においても看護婦業務を遂行するに適するような看護婦を養成することという公的目的を遂行するための支障となるものでないことは、後に認定するように、本件学院卒業生のうちかなりの数の者が他の病院、診療所等に就職し、若しくはさらに上級学校へ進学していること、卒業生の大多数の者が国家試験に合格していること(本件口頭弁論の全趣旨により認めることができる。)、従つてこれらの事実から、本件学院が現実に右の目的を遂行し得ているものと認められることだけから考えても明らかである。従つて、本件学院が経営面及び人的構成の面で被控訴人に依存しているということは、本件学院の法的性格、目的が控訴人ら主張のようなものであるかどうかを判断するためのきめ手となることがらとは考えがたい。

また、このことが本件学院をもつて企業内養成機関と断定すること(従つて、本件学院生徒をもつて、養成工若しくはこれと類似の身分、地位を有するものと認めること)の根拠となり得ないことは、後に認定するように、かように断定することの妨げとなる徴憑事実が数多く存在することに照らして明らかである。

(三)  入学の動機、入学手続及び入学試験について

前掲乙第二号証の一ないし四、原審並びに当審証人東喜久子、当審証人松村はるの各証言、原審及び当審における控訴人深野文子、同山口つぎ、同国井智恵子ら各本人尋問の結果をあわせれば、次の事実を認めることができ、この認定を妨げるに足りる証拠はない。

1  本件学院は、毎年公募により生徒(本件学院の発足当時から昭和四三年三月までは、学院において、在学生を「学生」と称呼し、同年四月以降「生徒」と改めた。学院及び病院において「看護婦生徒」と呼ぶこともあつたので、以下「生徒」という。)を募集し、入学資格のある者(昭和三七年四月一日以降本科課程については、高等学校卒業者又はこれと同等以上の学力があると認められた者とされている。)で、本件学院に入学しようとする者は、所定の入学願書、履歴書、戸籍謄本、最終学校卒業証明書又は卒業見込証明書、最終出身校成績書及び内申書、所定の用紙による健康診断書等を提出して入学の申込みをする。

2  学院は入学志願者に対して学科試験、人物考査及び身体検査(健康診断)を行い、かつ、前記内申書等を参考として入学の許否を決定し、入学の許可を得た者は入学金を納入し、正、副各一名の身元保証人を定めて所定の身元保証書を学院に提出しなければならないものとしていた。

3  入学試験の中、人物考査の一環として面接試験が行われるが、この面接試験には学院側の院長若しくは教員のほかに慶応病院総婦長が試験官として立ち会い、(昭和三四年度以降は前記松村はるが立ち会つて来た。)試験の評価を行うものとされており、控訴人らも入学試験に際して試験官としての総婦長から評価を受けた。

以上の事実が認められる。

控訴人らは、総婦長の面接試験への関与は、被控訴人において本件学院の卒業者は希望するかぎり全員慶応病院看護婦として採用することが当然の前提であつたためであるかの如く主張し、前掲東証人及び控訴人らは同様の趣旨を供述する。しかし総婦長の面接試験への関与は、控訴人ら主張のような前提をとらなければ理解することができないものではなく、前掲松村証人及び原審における内藤寿喜子の各証言によれば、同人は看護婦として永年の経験者であり、かつ総婦長として多数の看護婦を管理していた者であつて、いわゆる学識経験者と認められたうえに、同人が本件学院の臨床実習の指導の責任者として、学院の行う教育面にも関与していたことから、同人を適格者として試験官を委嘱したことによるものと認めることができるのであつて、右証人及び各本人の供述は、いずれも採用しがたい。

また、入学志願者に対し、学科試験等のほか身体検査(健康診断)が行われることは、右述のとおりであり、前掲松村、東各証言によつても、本件学院の入学試験において健康が重視されていたことをうかがうことができるが、看護婦としての養成に臨床実習が不可欠であること等から考えても、養成にたえるためには、相当の体力を要することは明らかであるから、入学試験において身体検査が行われるということだけで、合否の判定が慶応病院の看護婦として採用するに適するかどうかということを眼中において行われるものとすることは相当でない。

さらに、前掲各本人尋問の結果中には、(イ)松村婦長から「身体が弱そうにみえるが慶応病院の看護婦として働けるか」との質問を受けた、(ロ)前髪をあげるよう求めるなど容姿まで審査された、(ハ)立つたり座つたりの身体の機能検査まで行われた、等の供述がないではない。しかし、仮りにそのとおりであるとしても、(イ)の発問の趣旨は、慶応病院のような全国有数の大病院で忙しく立ち働くだけの体力があるかどうかを尋ねる趣旨で、ひつきよう健康状態に関する質問に過ぎないと解されないでもない。(ロ)は、看護婦の業務は、日常患者や医師に接することが多く、慶応病院に限らず、いずれの病院においても対人関係が無視しがたい要素となるところから、なるべくならば、顔に著しい傷痕等があるような者は看護婦として養成することをひかえた方がよかろうとの配慮から出たものと解されないでもない。(ハ)は、看護婦としての養成にたえるためにも、また卒業後いずれの病院の看護婦の業務に就くについても、身体の機能が重視さるべきものであることから考えて、当然の措置というべきである。従つて、入学試験において右のような発問等があつたからといつて、(その当否は別としても)それだけで、本件学院の入学試験において、すでに慶応病院の看護婦として採用するに適するかどうかということが合否判定の基準となつていたかのようにいうことは相当でない。

その他の点においては、入学手続、入学試験について、一般学校におけるものと異なるものがないことは、前認定に徴し明らかである。

4  控訴人らは、なお、入学志願者は、ほとんど例外なく慶応病院の看護婦となる目的をもつものである旨を主張し、前掲各本人の供述及び本件口頭弁論の全趣旨によれば、入学志願者の大多数の者の志願の動機が控訴人ら主張のとおりであることが認められる。

しかし、前掲内藤、東各証言によつても、学資の貸与制が採用された以後においても、極めて少数ながらもその貸与を受けない自費生があつたことが認められること、及び後に認定するように本件学院の卒業生のうちのかなりの数の者が慶応病院以外の病院等に就職し若しくは上級学校に進学していることなどをあわせ考えれば、入学志願者のうちには、初めから慶応病院に就職する意思をもたない者、若しくは同病院に就職する確定的意思をもたない者も或る程度は存在していたことを推認することができる。このことは、かえつて、本件学院が慶応病院に限らず一般看護婦を養成することを目的とする教育施設であることの間接事実ともなり得るわけであるから、入学志願者の動機のいかんは、本件学院の法的性格、目的、ひいては入学時に結ばれる契約の性質を判定するためのきめ手となる間接事実と認めることはできない。

(四)  本件学院の生徒の処遇

前掲乙第二号証の一ないし四、成立に争いのない同第二二ないし二五号証、甲第二八号証(被控訴人の職員就業規則)に原審証人内藤寿喜子、同山添啓子、同酒井洋子、同長田真禧子、原審及び当審証人東喜久子、当審証人大久保弘子、同原美恵子、同前田照子、同藤井保夫の各証言をあわせれば、次の事実を認めることができる。

原審及び当審証人東喜久子の証言中、この認定とてい触する趣旨の供述は信用できず、その他にこの認定を妨げるに足りる証拠はない。

1  本件学院の本科課程は毎年四月一日から始まり翌年三月末日をもつて終り、これを一学年とし、三学年間(修業年限が三か年であることは前記した。)に学科及び臨床実習(その実態、性格については後に認定する。)を履修する。

2  本件学院は、一般の祝祭日のほか、被控訴人の経営する他の学校と同様に、福沢先生記念日(一月一〇日)、慶応義塾開校記念日(四月二三日)はそれぞれ休日とし、更に春季、夏季、冬季にそれぞれ季節休暇があり、この休日及び休暇には、授業及び臨床実習が行われず、また、いわゆる早慶戦の際には、被控訴人経営の他の学校と同様に、これを参観することが認められ、授業及び実習が休みとされた。

3  生徒は在学中授業料を徴収され(控訴人らが在学した期間は一か年金六〇〇〇円であつた。)、希望者は寄宿舎(寮)に入ることができるものとされ、入寮者に対しては、食費、寮費は無償とされていた。そうして、このように食費、寮費が無償であつたこと、生徒のうちには地方出身者が多かつたこと(成立に争いのない甲第八号証の二により認めることができる。)、及び通学の便宜(寄宿舎は本件学院及び慶応病院の建物の敷地内に建てられていた。)等の事情のため、大部分の生徒が入寮していた。

4  在学中生徒の希望により、学資の補助を要するものと認められる者に対し学資を貸与することがあるものとされ、(この金額は控訴人らの在学中の期間では毎月二〇〇〇円であつた。)、この制度は、普通奨学金と呼ばれていた。そうしてこの奨学金は大部分の生徒が貸付けを希望し、希望者には全員貸与されていたが、経済的負担能力のある者(いわゆる自費生)又は被控訴人以外の他の機関からの経済的援助を受けていた者はこの貸付けの制度を利用せず、結局、この制度を利用するか否かは生徒の自由に任され、年度によつては、小数ながらも、これを利用しない者もあつた。この奨学金の貸与を受けた場合、本件学院を卒業後慶応病院に就職した者は毎月割賦により返済すべきものとされ(その返済額は毎月一、〇〇〇円であつて、給料から天引きされる。)、更に昭和四二年度以降は同病院に三か年勤務して、その間の返済額が貸与金額の半額に達したときは、残余の債務は免除されるという特典が付加された。他方、本件学院を卒業した後同病院に就職しなかつた者(上級学校に進学し又は他の病院、診療所等に就職する等の事情により)は、貸与を受けた金員の全額を一時に返済しなければならない建前となつていた。

5  生徒は、実習においても、エプロンを掛ける等服装上も、病院看護婦と区別され、実習に就くにあたつては、実習生としての身分が明らかにされた。また、生徒は、被控訴人の「慶応義塾職員就業規則」及び職員の任免規程のうえでは、被控訴人の職員(教育職員、事務職員、技術職員の別があるものとされ、病院看護婦は技術職員とされている。)として取扱いを受けていない。

なお、本件学院の生徒は、本件学院の前身である前記大学医学科附属看護婦養成所が設立されて、最初の入学者を第一回生と呼び、その後毎年度の入学者について「一」を加えてその回数をもつて、第何回生と呼び慣わされて来た(この呼称方法に従えば、控訴人らは第五六回生となる。)。

以上の事実を認定することができる。

控訴人らは、右のような奨学金制度は、附属養成所当時採用されていた勤務の義務付けの代替措置として足止め策であると主張する。しかし、もともと、奨学金の貸与を受けるかどうかは、前述のように、生徒の自由に任されており、本件学院において生徒にその借受けを強要したり、強いてこれを勧誘したというような事実は、これを認めるに足る証拠がない。また卒業後慶応病院に就職しないことにより一時に返済しなければならない金額は、被控訴人らの卒業当時についていえば、一か月二〇〇〇円の割合による授業料の三か年分、すなわち七万二〇〇〇円であつて、そのほかに多額の利子を附加徴収する等の苛酷な返済条件を課していたというような事実があつたことについては、なんらの主張立証がない。しかも、後に認定するように、本件学院の卒業生のうちかなりの数の者が卒業後慶応病院以外の医療施設等に就職し若しくは進学していることは、奨学金制度が、事実上も、足止め策としての効用を発揮していないことを推認させるものである。もつとも、前掲東証人は、同証人が本件学院を卒業した当時(昭和三三年)、卒業生が慶応病院に就職しないことにより一時に返済しなければならないこととなる金額は、一か月一五〇〇円の割合による三年間分の借受金総額のほかに、食費、寮費及び実習費が含まれ、総額で二〇万円近くにもなり、到底、一時にこれを返済することは不可能であつた旨を証言しているが、前掲乙第一号証の一、二、同第二号証の一ないし四によれば、卒業生が勤務の義務制に違反した場合には「在学中に支給したる食費、手当金及び宿舎費の全部又は一部を弁償」せしめる旨の規定は、すでに、前記昭和一七年六月二〇日の規則の改正により削除されていることからみても、東証言のうち一時に返済すべき金額のうちに食費、寮費等に相当する金額が含まれるとする部分の信憑性が疑われるうえに、前掲山添、大久保各証言が一時に返済すべき金額は借り受けた奨学金の全額七万二〇〇〇円であつた旨を明言していることから考えて、右東証言は、前認定を覆すに足る証拠として採用しがたいものである。

してみると、奨学金(貸費)制度は、これを希望する者に一種の恩恵を与えて心理的負い目を課することにより、若しくは、一時にこれを返済することのできない事情にある者については、所定の年限慶応病院に就職すべき心理的誘因を惹起させることにより、事実上、貸費を受けた者が病院に勤務することとなるよう期待する趣旨のものであるとはいいえても、法的にはもとより、実質的にも、控訴人ら主張のように勤務の義務付けに代替する足止め策とみることは、困難であるといわねばならない。

控訴人らは、また、食費、寮費が無償であることは、生徒の実習が補助労働の性格をもつことの対価であるかの如く主張するが、後に認定するように、実習が教育的見地から行われ、かつその実態をもつものであること、実習は一面病院側の負担ともなること、等から考えて、法的にはもとより、実質的にも、食費、寮費が無償であることと生徒の実習とが対価関係にあると考えることは困難であつて、これらを無償とすることは、入学志願者の募集、生徒の看護婦として教育、養成を容易にするために、被控訴人の付与した恩恵的措置とみるのが相当である。その他以上1ないし5に認定した事実のうちには、本件学院生の地位、身分をもつて、控訴人ら主張のように企業内養成機関における養成工若しくはこれと類似のものと認むべき徴憑事実を発見することはできず、かえつて、以上認定の事実によれば、主として、本件学院の生徒が看護婦としての教育、養成を目的とする施設の学生であるということから生ずる特色を除いては、同じく被控訴人の経営にかかる他の学校の学生とほぼ同様の取扱いを受けていたものと認めることができる。

(五)  本件学院における教育、とくに臨床実習の実態について

成立に争いのない甲第二九号証、同第三〇号証、同第三一号証の一ないし四、同第三二ないし第四〇号証、控訴人ら主張のとおりの写真であることが当事者間に争いのない同第五二、五三号証、前掲乙第二号証の一ないし四、同第三号証、成立に争いのない同第二二ないし第二五号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認める同第五号証、原審証人山添啓子、同酒井洋子、同日詰克子、同長田真禧子、同内藤寿喜子、原審及び当審証人東喜久子、当審証人武間登美江、同島崎光子、同大久保弘子、同藤井保久、同前田照子、同松村はるの各証言、原審における控訴人吉沢扶佐子、原審及び当審における控訴人深町、国井、山口らの各本人尋問の結果をあわせれば、次の事実を認定することができる。原審及び当審証人東喜久子の証言中、この認定に反する供述は採用できず、その他にこれを妨げるに足りる証拠はない。

1  さきにも述べたように、本件学院において行われる教育は、指定規則及び所轄庁の通達等による行政指導の要求する教育基準に準拠してなされているものであつて、本件学院においては、この教育基準に基づき、更に必要と認める学科目と臨床実習の課程を加えて、学科目及び臨床実習のカリキユラムを定めてこれを実施していた。そうして、このカリキユラムの内容はその時々において科目数及び時間数に変遷があるが、控訴人らが本件学院に在学中の期間についていえば、学科目については、看護婦としての養成に直接必要とされる科目(いわゆる看護学と称されるもの)とその他化学、教育学、心理学、統計学、社会学等の一般教養的科目とを合わせて合計一四五〇時間、臨床実習については、各科についての病室等における実習のため八九週以上、外来実習のため二一週以上合計一一〇週以上、を修業年限の三か年間に履修すべきものとし、これを実施していた。(なお、これを当時の指定規則別表三の基準と比較してみると、同表の指定する履修時間は、学科目につき合計一一五〇時間、臨床実習につき合計一〇四週以上であるから、本件学院におけるカリキユラムの方が、学科目、実習ともに、時間数が多く、かつ、学科目の時間数の実習の週数に対する割合も大きい。)なお、そのほかに、慶応義塾史、文学、音楽、体育等の純然たる一般教養科目についても、授業が行われ、教材として福沢諭吉自叙伝が使用され、また音楽の時間には、慶応義塾関係の歌を歌わせることもあつた。

2  本件学院においては、臨床実習指導の目的は、生徒に理論と実際との結びつきを学ばせ、適切な看護ができるよう指導するにあるものとし、その目標を看護に必要な原理と技術を習得させ、応用する能力を養うこと、治療介助の手順並びに技術を習得させること等に置き、これらの指導方針に基づいて臨床実習を行つていた。

3  臨床実習は、慶応病院の各病棟(特殊の病棟を除き、控訴人らが在学したころは合計二八病棟)、外来診療室(控訴人らが在学したころは一四科)、及び中央手術室等に五、六人を一つのグループとしてグループ別に順次配属されて行われ、慶応病院に病棟のない精神科、急性伝染病と保健所関係は、同病院以外の病院及び公立の保健所に委託して行われた。そうして、臨床実習の全体を通じその計画の大綱、進行順序は、学院の教務主任及び教員が病院側の総婦長及び婦長らと連絡をとりながらこれを定めて実施した。

4  第一学年の前半の約六か月間には、「予科見学実習」と名付けられて、病院の大要と看護婦の義務のおおよその概念を学ばせることが行われ、これが終了した段階で、試験(いわゆる予科試験)が実施され、合格者(健康事情等に基づく特殊の例外を除いてほとんどの生徒がこれに合格していた。)は各病棟について行われる臨床実習の段階に進んだ。この段階の直前に、病院総婦長の立会いのもとに戴帽式(正規の病院看護婦の制帽に似た制帽を着用する一種の儀式であつて、臨床実習を行う資格の公認を受ける意味を持つものと理解されており、キヤツピングともいわれている。)が挙行された。

戴帽式が終了した後、第一学年の修了までは「基礎看護実習(看護の原理と実際を臨床において実習、習得させることを目的とする実習)」が行われ、第二学年以後卒業まで各科及び病棟実習が行われた。

5  各科及び病棟実習は、内科、総合外来、小児科、整形外科、手術室(以上第二学年分)、外科、混合(耳鼻咽喉科、眼科、皮膚泌尿器科)、産科、婦人科の各病棟(以上第三学年分)について看護業務を実習するのであるが、病院側は学生係として五、六名ないし七、八名の看護婦を割いて、生徒の実習の指導に専従させ、このほか各科病棟及び外来診療室の婦長、主任看護婦、看護婦も随時、適宜に生徒の看護実習の指導を行つていた。このため、病院側としては、後に述べるように生徒の看護実習により正規の看護婦の業務に補助を受けることがあつた反面、実習指導に時間と精力を奪われ、かなりの負担となる結果も生じていた。

第三学年の後半においては、生徒が看護業務がどのようなものであるかをひととおり理解し、技術的にも習熟して来るため、慶応病院の独得の看護実習として、各病棟について総合的看護の方法(病棟の主任看護婦の業務にあたるもの)を学ばせるため、病棟の主任看護婦の下でその指導の下に「病棟管理実習」を行わせるとともに、第一学年の生徒の行う基礎看護実習の指導を手伝わせた。

6  各科病棟実習の配置は、前記3の方法により、学院側が立てた実習配置表に基づき実施されたが、生徒は配属場所においては、定められた計画の大綱の下で、生徒各自が具体的に計画を立て、これを実行するという方法により、随時指導を受けながら、自主的に実習を行うものとされていた。そうして、学院側は、看護の基礎は、「患者の全体像を把握し、患者との心の交流をはかるにある」との理念に基づいて受持患者制を実施し、一人又は数人の患者を一定期間生徒が受け持ち、患者と終始接触することを通じて看護の技術と方法を学ぶことが行われた。この受持患者の選定は、学院及び病院側で生徒の希望ないし意見を聞いたうえで、これを参考として決定していた。一日の実習は、午前七時三〇分に開始されたときは午後三時三〇分に終り、午前八時に開始されたときは午後四時に終つていた。そうして、生徒は、実習として、洗面、食飼の介助、洗髪の介助、シーツ交換、体位交換、清拭(患者の身体を拭うこと)、(これらの全部若しくは一部が起床時に行われる場合、モーニングケアと称された。)入浴の介助、排泄の介助等の身の廻りの世話から検温、検脈、注射(ただし、静脈注射は行わない。)、投薬、検査室、手術室への送迎、手術患者の術前、術後の管理等に及ぶ広い範囲の看護行為をみずから行つて、これを通じて看護の知識と技能を習得した。

生徒は、実習につきみずから立てた具体的計画とその実施の結果を「学生実習計画実施表」に記載し、学生係、病棟婦長及び主任、総婦長並びに学院教務の検印を受けるべきものとされ、これを閲覧した学生係等が必要に応じ、適宜、注意、助言等を附記すべきものとされていた。(乙第二二ないし第二五号証は控訴人らの学生実習計画実施表であるが、随所に、赤インクでかような注意、助言等が記入されている。)

そのほか生徒は、受持患者をもたされた場合には、みずから行つた看護実習行為の要点、看護上の問題点、及びこれに対し採つた対策等を記録した「受持患者記録」(甲第三二ないし第四〇号証)を作成して学生係に提出すべきものとされていた。そうして、これらの記録は、生徒の成績評価の資料とされるとともに、生徒指導上の参考とされた。

7  病棟実習には、準夜(午後三時から午後一一時まで)及び深夜(午後一一時から翌日の午前八時まで)の夜間実習が行われるべきものとされ、準夜、深夜の各実習とも、三年間を通し、連続二日間、二回行われていたが、この実習は、あらかじめ指定された病棟において、夜勤看護婦を指導者として行われていた。

8  病院側においては、実習生徒が配属されたからといつて、全体の看護婦の数はもとより、各配置場所における看護婦の数を減少したり、その任務を軽減したりすることはなく、通常、熟練度の高い実習生が配属された場合には、実習生の労務提供が加わることによつて、いつそう看護のための労務提供が行き届いて行われるという関係を生ずるに過ぎない。そうして、実習生徒は、実習の性質上、指導の責任のある病院側の看護婦の指導監督に服することとなるのは当然であるが、前述のように、被控訴人の就業規則の適用はなく、その適用を受ける病院側の勤務体制に組み込まれるわけではない。

以上1ないし8に認定した事実を総合すれば、本件学院における学科の授業及び実習は、慶応病院に限らず、いずれの病院、診療所等においても看護婦としての業務に就くのに必要な学術知識及び技能を習得させることを目的として(すなわち学則第一条に掲げる目的を遂行するために)行なわれ、かつ、その実態をもつものと認めることができる。

控訴人らは、わが国の看護婦養成施設においては、実習が不当に重視され、実習の授業に対する割合は三分の二にも達しており、実習労働は病院の補助労働として活用され、その労働関係に組み込まれていると主張する。そうして前掲木下証言中にこれにそう証言があり、成立に争いのない甲第五〇、第五一号証にも、これにそうものと認められる記載がある。しかし、看護婦として養成するための教育課程において、実習が重視さるべきことは、むしろ、当然であり、問題は、これが教育的見地から行われるかどうかにあるものというべきであるが、前認定のように、控訴人らの在学当時本件学院において実施していたカリキユラムは、指定規則及び所轄庁の通達に準拠するものであり(これらの規則、通達は、看護婦養成の課程が学校における学生の教育として充実さるべきものであるとの見地に立つものであることも前述したとおりである。)、学科目、臨床実習の各履修時間ともに指定規則の定める基準を上廻るものであること、しかも学科目の時間数の実習の時間数に対する割合は本件学院のカリキユラムの方がむしろ大きいこと(このことは、本件学院のカリキユラムの方がいつそう学科目の授業に力をそそいでいたことを推認させるものである。)、その他前認定の事実によれば、本件学院における臨床実習は、おおむね、慶応病院に限らずいずれの病院等においても看護婦として役立つ看護婦を養成するという目的のために、教育的見地から行われていたものと認められ、本件学院において、実習を不当に重視していたという非難は当らないものというべきである。前掲木下証言、甲第五〇、第五一号証は、いずれも、本件学院についての控訴人ら在学当時の具体的事実に基づくものでないこと等から考えて、右認定を覆えすに足る証拠とは認めがたい。

もつとも、実習のための労務の提供が病院の看護婦の業務の補助として役立つという側面をもつことは、実習の性質上否定しがたいところであるが、それが教育的見地から行われるものであつて、病院側の負担を増す結果となつていたことも前述のとおりである。しかも、病院側においては、常時実習生の存在をあてにし、看護婦の仕事の一部を実習生徒の労務の提供によつて代替していたというわけのものではなく、また、実習生徒に被控訴人の就業規則が適用されないことも前認定のとおりであるから、控訴人ら主張のように、本件学院における実習労働が病院の補助労働として、その労働関係に組み込まれているとすることも正当でない。

さらに、前掲木下、東、武間、島崎、大久保らの各証言中に、「実習はモーニングケア等の単純な作業の繰り返しが多く、かような単純労働の単なる繰り返しは必ずしも教育効果を挙げるものではない」、「専任の指導係が少ないため、必要な場合に適宜の指導を受けることができないことがある」、「一部実習生徒は、学科で習わない科目について、いきなり実習に就かされたことがある」等の指摘がある。しかし、前掲前田、松村各証言によつても、実習は、その性質上反復して繰り返すことにより成果を挙げ得るものであつて、たとえば、シーツの交換等のような最も単純な作業ですらも、患者のその時時の状況や病気の種類によつてそれぞれ異なつた処置を採らねばならない場合があり、しかもこれを反復することにより病状の変化を正確に把握し、患者との「コミユーニケイシヨン」を深めることとなる点で、反復して繰り返すことが実習の成果を挙げるゆえんであると認められること、しかも、どの程度繰り返えせば教育効果を挙げ得るかについては、指導に責任を持つ者の裁量判断を尊重せざるをえないこと、その他前認定のような本件学院における実習の実態から考えれば、この実習をもつて、教育的見地を無視した、実習に名をかりた補助労働であるかの如くいうことは、正当とは思われない。その他の指摘も、本件学院における実習が理想的には、なお改善の余地があり得ることを示唆するものではあるとしても、右実習が大体において、教育実習としての実態をもつものであることを認めることの妨げとなるものではない。

控訴人らは、また、「病棟管理実習」は、本件学院に特有なものであつて、かような特殊な実習が行われていることは、本件学院が慶応病院の看護婦、とくに幹部看護婦を養成する目的をもつことを現わすものであると主張する。しかし、仮りに「病棟管理実習」なるものが本件学院に特有なものであり、他の看護婦養成施設においては行われていないものであるとしても、そのことは、本件学院において一般よりも水準の高い養成が行なわれていることを示すに過ぎず、このため一般看護婦の養成という目的が放てきされることとなるものではなく、前認定の本件学院における実習の実態に照らせば、現実にも、右実習が慶応病院のみの看護婦を養成する目的のために行われていたとは認めがたい。

もつとも、前掲山添、酒井各証言によれば、産科の実習については、産科において慶応病院が採用している慶応式と称せられる特色のある方式(産褥体操、産児の抱き方、沐浴のさせ方等の点において、いわゆる東大式と称せられるものに比して特色のある方式)によるものであることが認められる。しかし、前掲内藤、東各証言によれば、慶応式と称せられる方法も他の病院で通用しないようなものではないことがうかがわれるので、このことをもつて、本件学院における実習が慶応病院のみの看護婦を養成する目的で行われているとすることのできないことはいうまでもない。

控訴人らは、また、前認定の予科試験、「卒業の見込のない者」であることを理由とする退学制度は、慶応病院看護婦として不適切な者を排除するためのものであつて、本件学院における養成の課程が一貫して慶応病院看護婦を養成する目的の下に行われていることを示すものであると主張する。しかし、この制度は、学院規則の定める目的に照らせば、健康その他の理由で「看護婦に必要な学術技能を習得させる」という目的を達成することが到底不可能と認められる者をなるべく早期に退学させる趣旨のものであつて、慶応病院の看護婦となるのに適切でないという理由だけで退学を命ずることができるとする趣旨のものでないことは明らかである。実際にも、一般看護婦として養成するためには、必ずしも不適当ではないが、慶応病院の看護婦となるには適切でないという理由で退学を命じた事例は、証拠上、まつたくうかがわれない。

また、一般教養科目として「慶応義塾史」の授業が行われ、福沢諭吉自叙伝が教材と用いられ、音楽の時間に慶応義塾関係の歌を歌わせるのも、前記学則第一条の趣旨に添い、学院生徒の教育に被控訴人の教育方針を反映させる趣旨から出たものと解されるのであつて、これらのことのために、本件学院が慶応病院のみに適する看護婦を養成する施設となるものでないこともいうまでもない。

なお、控訴人らは、本件学院第五六回生から従来の定員四〇名が八〇名に増員されたが、その理由は、慶応病院の病棟数がふえ、それに対応する看護婦を確保するためであつて、このことからみても、本件学院の目的が控訴人ら主張のようなものであることが明らかであるとも主張する。そうして、第五六回生以降定員が従前の四〇名から八〇名に変更されたことは当事者間に争いがなく、前掲乙第二号証の二、三、成立に争いのない甲第八号証の一、二、前掲松村証言、及び当審証人牛場大蔵、同赤倉一郎の各証言によれば、慶応病院における病棟の増加が動機となつて第五六回生から定員が倍増されたことがうかがわれるが、それは、本件学院が事実上病院看護婦の重要な供給源となつていたところから、本件学院において、従前よりもいつそう多くの看護婦(一般看護婦)適格者を養成することを通じて、事実上、同病院就職希望者の増加を図ろうとしたものに過ぎず、かように病院側の病棟の増加と本件学院における生徒定員の増加とが事実上関連があるということだけで、直ちに、本件学院が慶応病院のみに適する看護婦を養成することを目的とするものといい得るものでなく、また、このため本件学院における教育実習が現実に慶応病院のみに適する看護婦を養成する目的をもつて追行されたものでないことも、前認定の事実に照らし疑いのないところである。

(六)  本件学院卒業後の生徒の進路について

成立に争いのない甲第八号証の一、二、原審証人内藤寿喜子、同山添啓子、原審及び当審証人東喜久子、当審証人前田照子、同松村はるの各証言に弁論の全趣旨をあわせれば、本件学院の卒業後生徒は全員慶応病院に看護婦として就職していたのではなく(ただし、前記のように附属養成所の当時、慶応病院に勤務することを義務付けられていたころは除く。)、助産婦、保健婦等の資格を取得するため上級学校に進学する者、慶応病院以外の他の病院、診療所等に就職する者もあつたこと、卒業生の中慶応病院に就職した者は、過去(控訴人らの卒業時からみて)数年間を通じて、最も多い時で、卒業生の全人員の約八〇パーセント、少ない時で四〇パーセント前後であつたこと(本科生について)、慶応病院としては、病院の規模に比べて看護婦の絶対数の不足を痛感していたので、本件学院の生徒に対し、卒業後は同病院に就職するよう勧誘し、入学式、戴帽式等において病院総婦長らが式辞において、「卒業後は慶応病院看護婦として働いてもらいたい。」旨を述べ、また学院側も生徒に対し、同病院に就職するよう指導していたこと、しかし、その反面、他の病院等からの求人案内を学院内に掲示することまではしなかつたにしても、看護婦雑誌等でこれを知り、他の病院等に就職の希望を申し出た者に対しては、学院において相談に応じ、成績証明書等を求人先に送付するなどして協力し、強いてこれを引きとめることはしなかつたこと、第五五回生(控訴人らが第五六回生であることは前述のとおりである。)までは慶応病院に就職を希望した者は全員同病院に採用されていたこと、第五六回生については卒業者が六九名であつたところ、このうち第一志望を上級学校への進学、第二志望を慶応病院就職とする者九名を含めて、進路調査による当初の慶応病院就職希望者は四九名であつたが、このうち九名が第一志望の上級学校進学の途をとり、更に残余の者のうち八名が他病院に就職し、控訴人ら及び病気の者一名の合計五名を除いて、結局、二七名が慶応病院に看護婦として採用され、就職したこと、進学者の合計数は一八名、他病院等への就職者の合計数は一九名であつたこと、以上の事実が認められ、この認定を妨げるに足りる証拠はない。

右認定事実に照らせば、被控訴人としては、本件学院の卒業生ができるだけ多く慶応病院に就職することを期待し、本件学院の生徒を同病院看護婦の重要な供給源と見ていたことがうかがわれるが、反面本件学院の卒業生の全員がこれに応じていたものではなく、奨学金の貸与を受けなかつた者はもとより、その貸与を受けた者も、これを返還して慶応病院就職以外の進路をとることは事実上各人の自由な選択に任されていたものと認められ、奨学金制度も、自由に進路を選ぶことにつき、さしたる障害となつていなかつたことをうかがうことができる。

控訴人らは、病院総婦長らの入学式、戴帽式等における発言をもつて、法的効果の発生をめざす意思表示(労働契約締結の申込)の性質をもつものと主張するが、それが行われた機会及び採用申込(雇傭契約締結申込)の意思表示は、通例、採用希望者についての個別的、具体的調査を経て特定の者に対しなされるものであるのに、総婦長らの右の言辞は、慶応病院就職希望者の各人につきかような調査を経て特定の者に対してなされたものとは認めがたいことから考えて、これをもつて、雇傭契約締結申込の意思表示と認めることは困難であり、かえつて、右の言辞は、一般生徒に対する単なるあいさつないし希望の表明に過ぎないものと認めるのが相当である。しかも、この言辞は、生徒が卒業後の進路を自由に選び得ることを前提とするものであることも明らかである。

なお、控訴人らは、昭和四三年度(控訴人ら卒業の年度)において慶応病院就職者がとくに少なかつたのは、卒業者のうち多数の者が控訴人らに対する採用拒否に抗議して慶応病院を去つたという特殊事情によるものである旨を主張し、前掲山添、大久保各証言中にこれにそう証言があるが、仮りにそのとおりであるにしても、そのこと自体が、卒業者が自由に進路を選ぶについて、事実上支障がなかつたことを示唆するものであることには、変わりはないものというべきである。

(七)  慶応病院における看護婦の採用手続等について

成立に争いのない甲第四号証(乙第六号証)、同第一〇、第一一号証、同第一四号証、同第一七号証の一ないし三、同第五四号証の一、二、同第五五号証、同第五六ないし第六三号証の各一、二、成立に争いのない乙第七号証の一ないし三、同第八号証の一ないし三、同第九号証の一ないし三、同第一〇号証の一ないし三、同第一二、第一三号証、同第一六号証の一ないし四、同第一七号証の一、二、同第一八号証の一ないし九、原審証人松本銀之助の証言により真正に成立したものと認める同第一一号証の一、二、原審証人山崎哲子の証言により真正に成立したものと認める同第一号証の一ないし三に原審証人松本銀之助、山崎哲子、山添啓子、内藤寿喜子、日詰克子、長田真禧子、佐藤忠、原審及び当審証人東喜久子、当審証人牛場大蔵、赤倉一郎、松村はるの各証言、原審及び当審における控訴人深町、同山口、同国井の各本人尋問の結果、原審における控訴人吉沢本人尋問の結果を総合すれば、次の事実を認めることができる。

1  慶応病院においては、年度内における看護婦募集人員は、前年三月慶応義塾の予算編成の際、同義塾全体の予算のうちで、病院における収入、支出、退職者の概算、病院業務の繁閑等を考慮して病院側の必要に応じて総数を決定するが、その決定にあたつては、本学院卒業者ないし就職希望者の全員を当然採用すべきことを前提としない。

2  慶応病院看護婦の採用は、本件学院の卒業生を採用する場合と一般の公募により、応募した本件学院以外の他の学校又は看護婦養成所の卒業者(いわゆる他卒者)から採用する場合との二つの場合があるが、この他卒者の採用手続は、応募者から履歴書、戸籍謄本、看護婦免許証写又は看護学校若しくは看護婦養成所の成績表、同内申書、卒業証書等を提出させ、慶応病院長、医学部事務長、総婦長らの幹部が書類詮衡をし、かつ、面接のうえ採否を決定(内部的に)し、採用の場合には本人に採用内定通知を送付し、当該本人から身元保証書(身元保証人の署名、押印のあるもの)を提出させた。そうして、右幹部らから医学部長を経て上部の機関である被控訴人の常任理事会に上申し、その議を経て塾長(被控訴人を代表する理事)の決裁を受け、被控訴人の塾長名義の任用の辞令を発付し、これを当該採用者に交付することとしていた。

3  本件学院の卒業生の場合は、学院当局によつて、第三学年在学中の生徒につき、卒業後慶応病院に就職することを希望するか否かが調査(以下、これを進路調査という。)されるが、調査の結果明らかになつた慶応病院就職希望者から履歴書、身上書、身許調書、戸籍謄本等と身元保証書を一括して学院を通じ病院側に提出させるとともに(この身元保証書と他の右書類との一括提出は、原審証人山崎哲子、当審証人松村はるの各証言によれば、昭和四〇年ころからのことであつたと認められる。)、学院から成績証明書、内申書等を提出させ、これらの書類に基づいて医学部及び病院の前記幹部らが詮衡し、採用と決定した者について前記1の場合と同様に医学部長を経て常任理事会に上申し、その議を経て塾長の決裁を受け、塾長名義の四月一日付の辞令を交付した。(この辞令の交付は、通常日付よりも遅れるが、既に採用と決定された者は、辞令交付前の毎年四月一日から病院で勤務することが認められた。)もつとも、被控訴人は、他卒者を採用する場合と異り、本件学院の卒業生については、控訴人らを含む第五六回生の前年度の第五五回生までは、あらたまつて、採用内定通知を書面又は口頭で明示的にすることをせず、卒業式後の三月中旬以後病院の看護婦寮への入寮者部屋割り(生徒は在学中は学院の寄宿舎に入寮していたが、看護婦として採用された場合は、看護婦寮に移動する必要があつた。)を同寮の玄関内等に掲示し、更に三月末日ころ病院における勤務場所を同じく看護婦寮の玄関内等に掲示することにより採用者に対し採用した旨を了知させていた。以上が従来から行われていた本件学院卒業生についての採用手続である。

4  本件第五六回生の場合は、第三学年在学中の者につき昭和四二年四、五月頃と一〇月下旬ないし一二月初旬の二回にわたり進路調査が行われ、二回目は、勤務場所についての希望をも含めて調査が行われたが、病院側は、進学を第一志望とし、病院就職を第二志望とする者を含めて、進路調査により明らかとなつた病院就職希望者全員に対して、昭和四二年一二月初旬に、同月一〇日までに、前記2の履歴書、身上書、身許調書、戸籍謄本とともに身元保証書を提出するよう求め、右希望者(控訴人らはこれに含まれる。)らは、全員これらの書類をととのえて学院に提出し、学院は、これらの書類に各自の成績証明書、内申書等を添えて病院側に提出した。右身元保証書には「此の度貴塾へ就職しましたに就ては私達が保証人となり………決して貴塾に対し御迷惑をかけることは致しません。」という記載があり、控訴人ら各自及びその保証人(二名)がこれにそれぞれ署名押印しており、それぞれ、履歴書等の提出日付と同じ日付の記載がある。

ところで、右書類が病院に提出されたころ、赤倉一郎病院長(当時)は、医学部事務長(岩崎)、病院総婦長(松村)を加えて右病院就職希望者らと面接することを発議した。この面接の趣旨は、第五六回生以降については、生徒定員が従来の四〇名から八〇名に増員されたところから、進路調査により病院就職の希望を明らかにしている者についても、従前よりもいつそう人物等についての個別的審査を慎重にすることにあつたが、その連絡通知にあたつては、面接試験というような明確な表現を用いず、単に、総婦長、病院長が皆さんと話しをしたいといつている、という程度のことが口頭で伝えられたに過ぎない。そうして、昭和四二年一二月二一日松村総婦長と松本医学部事務次長が、病院の会議室において四、五人のグループに分けて右就職希望者全員について面接を行い、これによつて得た同人らの意見は、赤倉病院長に提出し、ついで昭和四三年一月一〇日ころ同病院長と岩崎医学部事務長とが前回と同様に四、五人のグループ別に病院会議室において面接を行い、控訴人らは、この二回とも面接を受けた(第二回目の面接は、第一次希望を進学とする者については結局行われなかつた。)。

その結果、右病院長及び事務長らがさきに提出された履歴書、身元調書等の書類、学院の提出した成績証明書、内申書等の書類と右面接の結果等を総合判断して詮衡したうえ、その結果を医学部長にはかり、控訴人ら及びほか一名については採用しないことと決定した。この決定に基づいて、医学部長がその旨を常任理事会に上申し、その議を経て、採用者については内定通知を、控訴人らについては、「遺憾ながら貴意に副いかねる」旨の採用拒否通知を、いずれも昭和四三年二月一〇日付、慶応義塾大学医学部長名義で送付した。なお、病院看護婦寮玄関内等になされた入寮者部屋割及び勤務場所の掲示中には、控訴人らの氏名はかかげられていなかつた。

以上のとおり認めることができる。

5  控訴人らは、本件学院卒業生の慶応病院への採用手続は、他卒者に対する公募の手続とはまつたく異なり、前記身元保証書等の提出により完了するものであつて、採用試験なるものは存在しないと主張する。すなわち、本件学院においては、入学試験がすでに慶応病院看護婦として採用するに適するかどうかを判定する性格のもの、予科試験、退学制度は慶応病院看護婦として不適切な者を排除するためのものであり、その他教育、実習の過程も、すべて、一貫して、慶応病院で看護婦として働くのに適するような看護婦を養成する目的の下に行われるものであつて、第三学年における二度にわたる進路調査は、慶応病院に残る者を最終的に確認し、特定する意味をもつものであり、病院側は、かようにして特定された者に対し、身元保証書を含む前記書類の提出を求めることによつて採用の申込をし、これに対し、進路調査により病院就職の意思を明らかにしていた卒業見込者が要求された前記書類を提出することによつて承諾の意思表示をするのである。本件学院が附属養成所として発足以来第五五回生に至るまでは、詮衡ないし試験を実施して採用を拒否した事例は一度もなく、希望者はすべて、身元保証書等を提出した時点で、採用若しくは採用すべきことが決定されていたものであり、このような採用手続は慣行として確立されていた、というのである。そうして、控訴人ら援用の各証人の証言、各本人の供述、及び弁論の全趣旨により成立を認めることのできる甲第二六、第二七号証中に控訴人らの右主張に添う供述ないし供述記載がある。

<1> しかし、入学試験が控訴人ら主張のような性格のものではなく、一般看護婦として養成するに適するかどうかを判定の基準とするものであること、予科試験・退学制度も控訴人ら主張のような性格のものではないこと、その他教育、実習の過程も控訴人ら主張のような目的をもつて行われるものではなく、慶応病院に限らずいずれの医療施設等においても看護婦として執務するに適する一般看護婦を養成する目的をもつて行われるものであることは、いずれも前述のとおりである、そうして、進路調査は、前認定の事実によれば、(二回目の分が勤務場所の調査を含むものであることを考慮に入れても)、ほかのどのような意味、趣旨をもつものであるにせよ、控訴人らがこの調査表に希望進路等を記載することによつて、具体的に、採用を求める旨の意思を表明する趣旨のものでないことは明らかであり、また、被控訴人ないし慶応病院側がこのようなものの提出を求める趣旨は(仮りに、被控訴人若しくは同病院の依頼により進路調査が行われたものであるとしても)、採用申込の相手方を具体的に特定、人選する趣旨のものでないことも明らかである。すなわち、前認定の事実によれば、控訴人らを含む慶応病院就職希望者らは、学院当局から教えられて、採用条件(待遇条件)及び採用を求めるについてどのような書類を提出すべきかを知り、初めて、具体的に、採用を申し込む意思を固めて、前記履歴書等の書類を学院を通じて病院側に提出したと認められるのである。(従つて、これらの書類を提出する行為は、採用申込、すなわち雇傭契約締結の申込の意思表示を含むものと解することができる。)もつとも、前掲内藤、大久保、松村各証言によれば、控訴人らを含む第五六回生については、第三学年の病棟管理実習の段階において、総婦長から「当院の状況」と題する書面(乙第六号証、甲第四号証、これには、ベツド数等の病院の状況、給与等の待遇条件、提出書類等の記載があり、書類を拝見した後面接日を連絡する旨の注意書が附記されている。なお、本件口頭弁論の全趣旨によれば、これは他卒者に対する公募用の求人案内の性格をもつものと解され、慶応病院においては、このほかに学院卒業者向けの求人案内等は作成していなかつたものと認められる。)を示されて、その説明を受けたことがうかがわれるので、控訴人らを含む第五六回生は、その際に待遇条件や提出すべき書類を教えられたものと考えられるが、いずれにしても、控訴人らは、学院当局の就職指導を受けて、若しくは病棟管理実習の際、総婦長から教えられて待遇条件や提出すべき書類を知り、具体的に採用申込の意思を固めて前記の書類を提出したものであつて、控訴人らが採用の申込をする立場において右書類を提出したものであることは、控訴人らとしても、当然これを了解していたものと認めることができる。(従つて、控訴人らがこれらの書類を提出することが直ちに病院側の採用申込を応諾することとなるものと考えていたとは、到底認められない。)他方病院側としても、進路調査表に希望進路を記載しただけで、なんら個別的、具体的調査を経ていない者に対して、いきなり採用申込の意思表示をするということは、普通考えられないところであつて、病院側が前記書類の提出を求めることによつて採用申込の意思表示をする考えのなかつたことは明白である。してみると、前記書類の提出を求める行為が採用の申込にあたり、これを提出する行為が承諾の意思表示にあたるとし、この時点で控訴人ら主張のような始期付解約権留保付雇傭契約、若しくは採用内定等、なんらかの意味において、病院側に控訴人らを採用すべき法的拘束を生ずるような合意が成立したと認めることは、到底できないところである。

<2> もつとも、病院側が履歴書、身許調書等とともに身元保証書の提出を求めたことは、右の認定に対し一応の疑問を生じさせないではない。すなわち前記のような文言の記載された身元保証書を提出させることは、一応雇傭契約の成立を前提とするかに見えるからである。

しかし、成立に争いのない乙第一七号証の一、二、原審証人山崎哲子、当審証人松村はるの各証言によれば、病院側が履歴書等と同時に身元保証書の提出を求めるようになつたいきさつは、次のとおりであつたと認められる。すなわち、従来、本件学院の卒業生で病院に採用された者のうちには、保証人が地方に在住するため、若しくは、採用が決定されたことに安心してその提出をなおざりにする等の事情により、身元保証書の提出を遅らせる者があり、このため、病院の事務当局において被控訴人の主脳部に一括して採用の禀議を起すにつき書類がそろわず困つたことがあつたところから、主として、病院事務当局の発意により、採用決定の際に効力を生ずべき書類として、便宜、予め履歴書等と同時に身元保証書を提出させることとし、前記のように昭和四〇年頃からこれを実施していたものと認めることができる。被控訴人がかように便宜的、事務的措置として身元保証書の事前提出を求めたものであることは、進学を第一志望とし、病院就職を第二志望とする者(これらの者については雇傭契約は結ばれておらず、将来、結ばれるかどうかも不確実である。)についても、一様に身元保証書の事前提出を求めていること(成立に争いのない乙第一八号証の一ないし九、同第一九、第二〇号証によりこの事実を認めることができる。)、他方、控訴人らとしても、履歴書、身許調書等の書類を提出した後、これらの書類等に基づき採否の審査が行われたと認むるに足るような相当の期間をおいたうえで、あらためて、別の機会に、身元保証書の提出を求められたというならば格別であるが、履歴書、身許調書等の採用申込のために必要とされる書類と同時にこれを提出すべきことを求められたことからみて、(前記のとおり、身元保証書の提出日付は、身上書等の日付と一致している。)採用決定の際に効力を生ずべきものとして、便宜、予め提出させる趣旨であることは、これを知り得べき事情にあつたものと認めることができる。

しかも、企業等が人員を採用するにあたつては、採用申込者が提出した履歴書等に基づき個別的、具体的に調査、詮衡して採否を決するのが通例であり、ことに慶応病院が慶応義塾という独自の伝統と教育方針をもつ被控訴人法人によつて同義塾医学部の附属として経営され、独自の伝統、経営方針をもち、社会的に高い評価を得ている医療施設であること(この事実は、前掲赤倉、牛場各証言及び本件口頭弁論の全趣旨により認めることができる。)から考えれば、或る人物を病院に採用することが右の伝統、経営方針、社会的評価等に照らして適当かどうかということの判断を含めて、慎重に、個別的、具体的調査をすることは当然であつて、なんらかような調査をすることなく、書類詮衡の機会すら放棄して、いきなり身元保証書の提出を求めることにより採用の申込をするということは、到底、考えられないところである。従つて、病院側が履歴書等とともに身元保証書の提出を求め、控訴人らがこれに応じて身元保証書等を提出したからといつて、これにより、その時点で、直ちに、控訴人ら主張のような始期付、解約権留保付雇傭契約が成立したり、その他採用すべきことにつきなんらかの法的拘束を生ずるような合意が成立することはありえないものというべきであつて、控訴人らの主張にそう前掲各証拠は、いずれも採用できない。

(なお、控訴人らが履歴書、身許調書等を提出する行為は、採用申込の意思表示を含むと解する余地があることは、前述のとおりであるか、かように解した場合においても、病院側がこれを受理したことが当然に承諾の意思表示を含むとは認めがたいことは、以上に認定したところにより、すでに明らかである。)

<3> 控訴人らは、慣行を根拠として、身元保証書等が提出された時点において控訴人ら主張のような契約が成立したものと認められるべきである、とも主張する。そうして、第五五回生に至るまでは、本件学院の卒業生で慶応病院に就職することを拒まれた者が一人もないことは、前認定のとおりである。しかし、慣行を根拠として、控訴人ら主張のようにいうためには、単に、これまで学院卒業者で病院就職を希望する者は一度も拒まれたことがないという事実を指摘するだけでは足りず、慣行の内容自体が、病院側においては、学院卒業見込の病院就職希望者については、なんら個別的、具体的調査を経ることなく、書類詮衡の機会すらも放棄して身元保証書提出の時点で採用(或いは採用すべきこと)を決定していたということがいいえなければならない。この見地から考えてみるに、成立に争いのない甲第七号証の一、二、同第二三ないし第二五号証及び原審証人佐藤忠の証言によれば、慶応病院においては、従前から、慢性的に看護婦が不足し、このため、病棟の一部閉鎖という深刻な事態すら招来し、労働組合からたえず看護婦の増員を要求されていたことがうかがわれる。そうして、さきに(二)で認定したように、病院と本件学院とは人的に極めて密接な関係にあり、このことから病院側は学院内の事情を比較的よく知り得る事情にあつたもの(とくに生徒定員が増加されない第五五回生までについては)ということができる。これらの事情は、たしかに、病院側が学院卒業見込生の採否を決定するについて、個別的、具体的調査を比較的ゆるやかにしていたことを推測させる事情である。しかし、学院内における生徒の成績、人物等の評価とこれを採用しようとする病院側の評価判断とはおのずから異なるものがあり、ことに、慶応病院が前記のように独自の伝統、経営方針をもち高い社会的評価を得ていることから考えれば、病院側が、卒業見込生の採否を決するにあたつては、必ずしも学内評価にとらわれず、あらためて、右の伝統、経営方針、社会的評価等に照して、当該人物がふさわしいかどうかということの判断を含めて、慎重に、個別的に、具体的調査をすることは当然であつて、前記のような事情があつたからといつて、軽々に、書類詮衡の機会すらも放棄してかかつていたとは、容易に認めがたい。かえつて、前認定のように、従来から採用申込書に履歴書、身許調書等を提出させていたこと自体がすでに最少限度、これらの書類に基づき書類詮衡という個別的、具体的調査を行つていたことを推認させるものであるが、さらにいえば、前掲甲第七号証の一、二は、このことを、いつそう裏付けるものとみることができる。すなわち、右甲第七号証の二は、被控訴人慶応義塾の労働組合から慶応義塾塾長及び同医学部長あてに発せられた看護婦の採用基準等についての調査協力の申入れ書(同第七号証の一)に対する昭和三六年一二月一四日付の同塾長及び医学部長名義の回答書であるが、この回答書において、慶応病院の看護婦採用基準として掲げる事項のうちに「成績内申書等で書類詮衡し特に問題ないと考えられるもの」「面接上病院の業務に耐えられると考えられるもの」等の条項があることは、病院側においては、前記のような状況下においても、最少限度書類詮衡を行つていたことを示すものである。

してみると、慣行を根拠として、本件学院の卒業見込生は、病院就職を希望するかぎり、書類詮衡すらも経ないで採用を決定(若しくは内定)してもらう権利を認められていたということも、また身元保証書の提出時期までに正当の事由をもつて就労を拒まない限り、当然、始期付、解約権留保付で雇傭契約を締結してもらう権利(若しくは、内定等の採用を義務づける合意をしてもらう権利)が認められていたということもいいえず、もとより、民法第九二条により、控訴人ら主張のような契約ないし合意をすることについての意思表示があつたとすることのできないことも明らかである。

<4> なお、控訴人らは、被控訴人が第五六回生に限つて面接を行なつた理由として挙げているところ(定員の増加ということ)はまつたく虚構であり、また、面接試験としての通知はなかつたので、右面接は試験としての性格をもつものでないと主張する。

しかし、学院生の定員が二倍になれば、従来よりも、学院生個人個人について、人柄、人物等を具体的に知ることがいつそう困難になり、ひいて、病院就職の希望を表明している者のうちにも、人物、人柄等をいつそう慎重に判断すべき人物が混在することになることは当然であるから、控訴人ら主張のように、第五六回生についても病院就職希望者の数が従前と大差がなかつたという理由だけで、同年度の病院就職希望者については採用に慎重を期する必要がなかつたということができないことは明らかである。そうして、面接について、明確に試験としての連絡通知がなかつたことは前認定のとおりであるが、もともと企業等が人員の採否を決するについて、どのような資料によるべきかは、原則として採用者の自由であるべきであるから、前認定の面接なるものが試験の性格をもつものであるかどうかを論ずることは、本件の判断にとつて重要とは思われない。問題は、むしろ、控訴人らを含む第五六回生について、書類詮衡すらも行わないで採否を決定したものであるか、それとも、書類詮衡に面接の結果をも加えて採否の判断の資料としたものであるか、ということにあるものというべきところ、第五六回生については、従来の書類詮衡に面接の結果を加えて採否の判断をいつそう慎重に行つたものであり、かつ、そうすべき事情があつたことは、すでに認定したとおりである。従つて、この点に関する控訴人らの主張も採用しがたい。

三  以上二の(一)ないし(七)に判断したところを総合すれば、次のようにいうことができる。

本件学院は、慶応病院に限らず、いずれの病院、医療施設等においても、看護婦として執務するのに適するような一般看護婦を養成するという目的、法的性格をもつ学校であり、かつ、この目的にそう実態をもつものである。従つて、入学の際に被控訴人と入学を許可された者との間に結ばれる契約は、本件学院において右の目的のために教育を受けることについての権利義務の総合的表現としての本件学院の学生としての地位、身分を取得する契約以外にありえない。そうして、この地位、身分は、慶応病院就職を希望する限り、書類詮衡すらも経ないで、被控訴人の求めにより身元保証書等を提出することにより当然採用されたこととなるような若しくは、被控訴人において当然採用すべき義務を負うこととなるような特権的地位(控訴人らの表現によれば、卒業前身元保証書等を提出する時期までに、合理的理由をもつて、いずれかの当事者が慶応病院就労を拒否しない限り、当然、被控訴人との間で始期付、解約権留保付労働契約ないしは一種の無名契約が成立することとなるような法的地位、若しくは、被控訴人においてこのような契約を結ぶべき義務を負うこととなるような法的地位)を内包するものではない。従つて、このように内包された地位が身元保証書提出の時点で現実化し、具体化したものとして、控訴人らが被控訴人に対し現に慶応病院看護婦としての労働契約上の権利を有するということはできず、また控訴人らが被控訴人に対し、かような労働契約を結ぶべきことを要求し得る権利を有するということもできない。そうしてまた、控訴人らを含む第五六回生について、同人らが昭和四二年一二月一〇日付で身元保証書を提出することによつて、そのころ、被控訴人との間に控訴人ら主張のような始期付労働契約等が結ばれたという事実(採用が決定されたという事実)も、被控訴人において右契約を結ぶべき義務を負うこととなるような合意(採用内定等、なんらかの意味で採用すべきことの法的拘束を生ずる合意)が成立したという事実もない。

以上のとおり認めることができる。

もつとも、本件学院生徒のうち大多数の者は入学当初から慶応病院就職の希望をもつものであり、被控訴人においても奨学金制度を用意するなどして、事実上、できる限り多くの卒業生が同病院に就職することを希望し、期待し、実際にも、卒業生が同病院看護婦の重要な供給源となつていたことは、さきに認定したとおりであつて、これらの点から、本件学院が事実上若しくは主として同病院看護婦の養成を目的とする施設であるとみることは、みる人の自由というべきであろう。しかし、かようにみることが、控訴人らに、身元保証書等を提出することにより、書類詮衡すらも経ないで、その時点で当然に、採用されたこととなるというような、若しくは採用すべきことを被控訴人に要求し得ることとなるというような特権的法的地位が認められていたという法的判断と当然に結び付くものではなくまた、このようにみることが控訴人らが、身元保証書の提出により、昭和四二年一二月一〇日ころ、被控訴人と控訴人らの主張のような契約その他の合意を取り結んだという法的判断と当然に結び付くものでないことは、以上に判示したところにより、すでに、十分明らかである。

控訴人ら提出、援用の証拠のうちには、前掲木下証言、甲第四七ないし第五一号証等、わが国の看護婦養成施設における教育が沿革的に徒弟制度的なものであること、そこに在籍者の身分は企業内養成機関における養成工若しくはこれと類似のものであること、開業医制度の名残りである診療報酬内自前養成制度であること、これらの施設における教育環境は決して十分なものでなく、実習が不当に重視され、学生はむしろ病院側の労働力の対象として取り扱われていること等を指摘する点において、控訴人らの主張にそうものがないではないが、これらは、いずれも、本件学院に関する具体的事実についての資料と認められないこと、とくに本件学院についての、本件の問題を判断するために法的に意味のある徴憑事実についての正確な認識を示す資料とは認めがたい点において、右の認定を覆すに足ものとは認めがたく、その他本件に現われた一切の証拠を検討してみても、右認定を覆して控訴人らの前記主張を認めるに足りない。

なお、控訴人らの主張は、必らずしも明らかではなく、或いは、入学時においてすでに、控訴人らと被控訴人との間に控訴人ら主張のような契約関係の発生をめざす具体的な効果意思が控訴人ら及び被控訴人双方の側に現実に存在し、かような双方の効果の意思の合致により入学当初から控訴人ら主張のような契約が成立していたとの趣旨とも解されないでもない。しかし、前認定のように、入学時においては、たとえ少数ながらも慶応病院就職を希望しない者、若しくはその志望を確定していない者等も存在していたと認められること、及び入学時において入学の許可を得た者と被控訴人との間に結ばれる契約は、当時における具体的志望のいかんにかかわらず、すべて一律であるべきことから考えて、被控訴人の側はもとより、控訴人らを含む入学者の側も、このような具体的な効果意思をもつていたとは到底考えられないので、控訴人らの主張を右のように解する場合には、その理由のないものであることはいつそう明らかである。

以上のとおりであるから看護婦としての労働契約上の権利を有することの確認請求も、また、看護婦として採用すべきことを求める請求も、ともに、理由のないものであることは明らかである。

四  控訴人らは、被控訴人が控訴人らの採用を拒否したのは、控訴人らの思想、信条、団体加入等を理由とするものであつて、憲法第一九条、第二一条、第一四条、労働基準法第三条に違反し違法であるから、被控訴人は控訴人らを採用する義務を負い、控訴人らの採用を拒否したことは、不法行為を構成すると主張する。

そこで考えてみるに、憲法のこれらの規定は、その歴史的系譜からみても、国又は公共団体の統治行動に対し、個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とする規定であることは明らかであつて、労働基準法第三条は、これらの規定の精神を、私人相互間の関係である労使の関係にも押し及ぼし、具体化した規定と解されるのであるが、同条の「労働条件」なる言葉の通常の用語例から考えても、この規定は、労働者の雇入れによる労使関係の発生を前提とするものであることがうかがわれる。そうして、立法府がこのように労使関係の発生した以後について、これらの憲法の規定の精神を具体化することとしたのは、労使関係の発生する前の段階においては、憲法が一方において企業等に就職を希望し採用を求める側の者の思想、信条、団体加入等の自由を保障すると同時に、他方においてこれを採用しようとする企業等の側にも、同様の自由を保障し、かつ、私有財産制を基礎とする企業活動の自由を保障しているところから、企業等が人員の採否を決するについては、極めて広い裁量の自由が認めらるべきことを考慮して、労使関係発生前の段階については、その発生後についてと同様にこれを規制することは妥当でないとの立法政策的考量に基づくものと考えられるのであつて、かような立法政策的考量は、それ相応の合理的理由があるものといわねばならない。従つて、労働基準法第三条は、労使関係発生前の段階については、その適用を予想していない規定と解するのが相当である。

しかしながら、かように解することは、私人相互間の関係については、いかなる意味においても、これらの憲法の規定の精神が適用されることはまつたくありえないということを意味するものではない。なぜならば、裁判所もまた国家権力の行使にあたる国の機関である以上、私人相互間の行為であつても、それが憲法の諸規定の精神をふみにじるものであることが明らかであつて、その行為の態様、程度等からみて社会的に許容し得る限度を超えると認められる場合においては、その公権的判断においてこれを是認する判断を示すことが許されるはずはなく、かような場合には、裁判所は、その公権的判断において、当該行為をもつて憲法のこれらの規定の精神に反するものとして無効とするなど、憲法の精神にそう取扱いを示すべきことが要請されているものといわねばならないからである。この意味において、私人間の行為であつても、裁判所が当該行為をもつて、憲法の精神に基づく公の秩序に反するものとして無効とし、若しくは憲法の精神にそむくと認められる行動をとる者に対し憲法の精神にそうような行為をなすべきことを命ずるなど、憲法の精神にそう取扱い、判断をしなければならない場合があり得ることは、これを認めねばならない。

しかしながら、右述のような理由により労使関係が具体的に発生する前の段階においては、人員の採否を決しようとする企業等の側に、極めて広い裁量判断の自由が認められるべきものであるから、企業等が人員の採否を決するについては、それが企業等の経営上必要とされる限り、原則として、広くあらゆる要素を裁量判断の基礎とすることが許され、かつ、これらの諸要素のうちいずれを重視するかについても、原則として各企業等の自由に任されているものと解さざるをえず、しかも、この自由のうちには、採否決定の理由を明示、公開しないことの自由をも含むものと認めねばならない。たとえば、企業等が或る学校の卒業生の採否を決するにあたつては、その者の学業成績、健康状態等はもとより、その者の一定の思想信条に基づく政治的その他の諸活動歴、政治的活動を目的とする団体への所属の有無及び右団体員であることに基づく活動、これらの活動歴に基づく将来の活動の予測、並びにこれらの点の総合的評価としての人物、人柄が当該企業の業務内容、経営方針、伝統的社風等に照らして当該企業の運営上適当であるかどうかということ等、ひろく企業の運営上必要と考えられる事項を採否決定の判断の基礎とすることが許されるのであつて、しかも、学業成績等と前記の意味での人物、人柄についての評価といずれを重視すべきかということも、原則として、企業等の各自の自由な判断に任されているものと認めざるをえない。

従つて、労使関係が具体的に発生する前の段階において、企業等が或る人物を採用しないと決定したことが前記憲法の諸規定の精神に反するものとして、裁判所が公権的判断においてそれに応ずる判断を示すためには、思想、信条等が、企業等において人員の採否を決するについて裁量判断の基礎とすることが許される前記のような広汎な諸要素のうちの一つの、若しくは間接の(思想、信条等が外形に現われた諸活動の原因となつているという意味において)原因となつているということだけでは足りず、それが採用を拒否したことの直接、決定的な理由となつている場合であつて、当該行為の態様、程度等が社会的に許容される限度を超えるものと認められる場合でなければならないものと解するのが相当である。しかも、採否決定の理由を明らかにしない自由が認めらるべきことをも考えあわせれば、右の点の証明に事実上困難が伴うこととなるのは、やむをえないところである。

これを本件について考えるに、成立に争いのない甲第一五号証の一ないし四によれば、控訴人らは、いずれも、学業成績優秀な者、若しくは少くともクラス半ば以上の成績を収めていた者であることが明らかである。そうして、このことに前掲前田、松村各証言等をあわせ考えれば、控訴人らは、いずれも、一般看護婦に必要な学術技能を習得している者と認められる。そうして、弁論の全趣旨によりその成立を認めることのできる甲第五号証の一ないし七及び前掲控訴人ら各本人尋問の結果によれば、控訴人らが本件学院に在学中寮内活動、自治会活動、「サークル」活動等を活発に行い、控訴人らのいう学院民主化斗争の先頭に立つて活動していたこと、控訴人らが民主青年同盟に加入して、その政治的色彩を帯びる活動に関与していたこと、被控訴人ないし本件学院当局が本件学院の寮に控訴人ら在学当時副舎監として居住していた野村忠夫を通じて控訴人らの前記動静に注意を払つていたこと、前認定の面接において赤倉病院長らから「エンタープライズ寄港問題」、「安保問題」及び控訴人らの支持政党等について控訴人らの考えを尋ねる質問があつたこと、以上の事実を認めることができる。そうして、右面接の結果が控訴人らの採否決定の判断の資料とされたことは、前認定のとおりである。以上の事実によれば控訴人らの前記諸活動の原因となつた控訴人らの思想、信条等が控訴人らの不採用決定の一つの若しくは間接の理由となつていたことは、容易にこれを推認することができる。

しかしながら、右認定事実に前掲赤倉、松村各証言をあわせ考えれば、被控訴人において控訴人らの採用を拒否した理由は、右の点にとどまらず、控訴人らの前記諸活動及びこれに基づく将来の活動予測、並びにそれらの点の総合的評価としての人物、人柄が患者や医師との対人関係、人間関係を重視すべき看護婦業務の円滑適切な運営上、適当でないと評価されたことによるものとも考えられ、とくに、慶応病院が建学の精神に基づく独自の伝統と学風をもつて知られる慶応大学医学部の附属施設として被控訴人によつて経営され、それ自体としても独自の伝統と経営方針をもち、社会的にも極めて高い評価を得ている医療施設であること(このことは、前掲赤倉、牛場の各証言及び本件口頭弁論の全趣旨によりこれを認めることができる。)に照らし、前記の意味での控訴人らの人物、人柄が看護婦として採用するのに適当でないと評価、判断されたことが控訴人らの採用を拒否した重要な理由となつていたとも推認することができる。もつとも、かような点についての評価判断は、その性質上或る程度主観的色彩を帯びるものであることは否定しがたいところであるが、その判断がまつたく事実の基礎を欠くというならば格別、前認定の事実によれば、かように判断することについては、それ相応に事実の基礎があるものと認められるもので、これらの事実に基づく評価判断が見る人により多少とも異なり得るということだけで、この点の判断が人員採否の決定にあたり、採用者側がなすべき判断として、とくに非難に値するものということはできない。

してみれば、控訴人らの思想、信条等は、被控訴人が人員(看護婦)採否の判断の基礎とし得べき広汎な諸要素のうちの一つの、若しくは間接の理由となつていたということはいいえても、それが直接、決定的な理由であつたことについての証明は、本件においては、遂に、存在しないものと認めざるをえない。

そうして、本件学院が被控訴人ないしその経営にかかる慶応病院から人的にも経済的にも多大の援助、恩恵を受けて一般看護婦の養成という公的目的を追行する学校であること、控訴人らが本件学院の生徒として右の恩恵に浴しつつ一般看護婦に必要な学術技能を習得することができたものであること、しかも、卒業後の進路は各自の自由に任され、貸費制度も自由に進路を選ぶことにつき事実上支障となつていないこと、以上の事実は、いずれもさきに認定したところである。これらの事実に、わが国において看護婦が慢性的、一般的に不足していること(このことは慶応病院においてすら慢性的に看護婦が不足しているということから容易に推認することができる。)を考えあわせれば、控訴人らにその意思さえあれば、他の医療施設に就職することも、必ずしも不可能ではなかつたと認めることができる。これらの諸点から考えれば、被控訴人が控訴人らの採用を拒否したことは、控訴人らの誤解を避けるための配慮において欠けるところがなかつたとはいいえない点で、その当否については批判の余地があり得るものとしても、この行為が、その態様、程度等からみて社会的に許容される限度を超え、非難に値するものということはできない。

してみると、本件の場合は、裁判所がその公権的判断において、被控訴人が控訴人らの採用を拒否したことをもつて憲法の諸規定の精神に反し違法とすることのできない場合と認めざるをえない。従つて、これが憲法の精神(及びその具体化としての労働基準法第三条)に反し違法であることを理由として被控訴人に控訴人らを採用すべきことを求めるものとも解される控訴人らの請求も、また、被控訴人が違法に控訴人らの期待的利益を侵害したことを理由とする不法行為に基づく請求も、ともに、理由のないものといわねばならない。

当裁判所は、控訴人らが優秀な学業成績を収めながら、期待に反して、慶応病院就職の希望を実現することができなかつたことについては、同情を惜しむものではなく、また、被控訴人の側に控訴人らの誤解を避けることについての配慮に欠けるところがなかつたとはいいえない点において、反省すべき点がなかつたと考えるものではない。しかしながら、前記のような見地に基づき、いわば、ぎりぎりの問題につき冷静な法的判断を求められている当裁判所の立場においては、以上のとおり判断せざるをえない。

五  以上のとおりであるから、控訴人らの控訴にかかる請求及び控訴人らが当審において追加した新請求は、いずれも、その余の争点につき判断するまでもなく、すべて理由がなく、これと同旨の原判決は相当であり、当審における新請求は棄却さるべきものである。

よつて、民事訴訟法第三八四条に従い、本件控訴を棄却することとし、かつ、当審における新たな請求を棄却すべきものとし、控訴費用の負担につき同法第八九条、第九五条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 白石健三 小林哲郎 間中彦次)

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